4f す 田 貪 ^全 # 文學篇
一 一
卷
編輯 者 安 倍 能 成 小 宮 豐 隆
松 根 東洋 城- 矢 島祐利
隨
筆
CHENG YU TUNG EAST ASIAN LIBRARY
TORONTO, CANADA 7U 《"お
根 岸 庵 を 訪ふ記
lev If - 1 一一 一 B
半日 ある 記 . .
M
0
窮理 日記 • - -
嶋 つき : :
高 知が へり-.
雪ち やん • -
團栗. • •
龍舌蘭 . - -
嵐
森の 繪- - -
枯 菊の 影- -
や もら 物語 •
障子の 落 書 -
伊太利 人 . -
花 物語. • -
まじょ, 9 か 皿
先生 へ の 通信 一四 八
物理 學の應 用に 就て 一六 九
方 則に 就て 一七 五
知と 疑 . , 一九 0
物質と ェ ル ギ 一九 四
科學 上に 於け る權 威の 價 値と 弊害 二 〇 三
科學 者と 藝術家 へ... ニニ 一
自然現象の 豫報 ....., ニニ 四
時の 観念と エントロピ-並に プ B , ノビリ ティ 二 四 四
物理 學と 感覺 二 五 二
瀨戶內 海と 潮流 二 六 六
物理 寧 實驗の 敎投に 就て 二 七 〇
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夏の 小半日 二 七 九
津 田靑楓 君の 畫と南 畫の藝 術 的價値 二八
研究 的 態度の 養成 三 〇 四
戰爭と 氣象學 三 〇 九
蛙の 鳴聲 リ 三 一三
科學 上の 骨董趣味と 温故知新 三 一 g
病中 記 三 二 〇
病院の 夜明けの 物音 三 二 七
病室の 花 三 三 三
電車の 風呂 三 四 五
丸 善と 三越 - -- - . 三 五 Si
自畫像 三 八 〇
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小さな 出來事 四 一 1
鸚鵡の イズム 四 三 九
帝展を 見ざる の 記 四 四 四
淺 草紙 四 五八
芝 刈 -, 四 六 五
球 根 四 八 三
春 寒 四 九 六
文學の 中の 科學的 要素 五 〇 三
凍雨と 雨水 五一 三
漫畫 と科學 五一 七
旅日記から 五 二 五
厄年と etc. 五 七 1
5
春 六 題 五八 九
簑蟲と 蜘蛛 六 〇 一
蜂が 圑子を こしら へる 話 : : 丄ハ 〇 九
田園 雜感 六 一六
m , 記 „
考
記 ふ訪を 庵岸拫
根 岸 庵 を 訪ふ記
九月 五日 動物園 Q 大蛇 を 見に 行く とて 京 橋の 寓居 を 出て 通り 合 はせ の鐵道 馬車に 乘り 上野へ 着
いたのが 二 時 頃。 今日は 曇天で 暑さ も 薄く 道も惡 くないので 中々 公国. も娠 はうて 居る。 西 鄕の銅
像 Q 後から 黑 門の 前へ ぬけて 動物園 Q 方へ 曲る と 外國の 水兵が 人力と 何 か A 签 しく 云って 直ぶ み
をして 居た が 話しが 纏まらなかった と 見えて 間もなく 商品 陳列 所の 方へ 行って しまった。 マ ニラ
の歸休 兵と かで 茶色の 制服に 中 折惰を 冠った 0 がこヒ はかりで ない 途中で も澤山 見受けた。 動物
圜は 休みと 見えて 門が 締 つて 居る 様であった から 博物館の 方へ それて 杉林の 中へ 這 入った。 就 編
に 四 五 人 子供が 集って 騷 いで 居る。 ふり 返って 見る と 動物園の 門に m 舍者 らしい 老人と 小僧と 見
える Q が 立って 掛札を 見て 居る。 其處へ 美術 擧校 0 方 か ら窣が 一 一 臺幌を かけた Q が 出て 来たが こ
れも そこへ 止って 何 か 云うて 居る 様子で あつたが やがて 叉勸 工場の 方へ 引いて 行った。 自分 も陳
列 所 前 Q 砂 道 を 横切って 向 ひの 杉林に 這 入る とパ ノ ラ マ 館の 前で やって 居る 樂隊が 面白さう に 聞
えたから つい 其方へ 足が 向いた が 丁度 其 前 迄 行く と 一 切り ん だので あらう ぴたりと 止めて しま
つて 樂手は 煙草な ど ふかして じろ,/, \ 見物の 顏を 見て 居る。 後へ 廻って 見る と 小さな 杉が 十本 位
ある 下に 石. の觀 音が ころがって 居る。 何々 大 姉と 刻して ある。 眞 逆に 墓表と は 見えす 又 墓地で も
ない Q を 見る となんでも 之れ は 其處で 情夫に 殺された 女 か 何 かの 供養に 立てた ので は あるまい か
など 凄 涼な 感に打 たれて 其處を 去り、 館の 裏手へ 廻る と 坂の 上に 三十 位 Q 女と 十 歳 位の 女の子と
が 枯枝を 拾うて 居た から 之れ に 上 根 岸 迄の 道 を 聞いたら 丁寧に 敎へ て くれた。 不 折の 油畫 にあり
さうな 女 だな ど考 へながら 博物館の 横手 大献 院尊 前と 刻した 石 燈篛の 並んだ 處を 通って 行く と 下
り 坂に なった。 道端に 乞食が 一 人 しゃがんで 頻りに 叩頭いて 居た が 誰れ も 慈善. 家で ない と 見えて
鍵 一文 も奉捨 にならなかった の は氣の 毒であった。 之れ が柴 とりの 云うた 新 坂なる べし。 招據が
八 釜し い 迄 鳴いて 居る が 車の 音の 聞えぬ の は 有難い と 思うて 居る と 上野から 出て 來た 列車が 煤煙
を 吐いて 通って 行った。 三番と 掛 札した 踏切 を 越える と 櫻 木 町で 辻に 交桥 所が ある。 帽子 を 取つ
て 恭しく 子規の 家 を 尋ねた が 知らぬ との 答 故少々 意外に 思うて 顔 を 見詰めた。 すると 之れ が 案外
親切な 巡査で 戶籍簿 Q 樣な もの を 引っくり返して 小首 を 傾けながら 見て 居った が 後 を 見 か へって
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記 ふ 訪を庵 岸 根
內に晝 ねして 居た 今 一 人の を 呼 起した。 交代 0 時間が 來 たからと 云うて 序に 此人 にも 尋ねて くれ
たが 之れ も 知らぬ。 此の 巡査の 少々 撗柄顏 が 瘤に さはつ たれ 共 前の が 親切に 對し又 恭しく 禮を述
ベ て 左へ 曲った。 何でも 上 根 岸 八十 一 一番と か 思うて 居た が 家々 の 門札に 氣を 付けて 見て 行く 中前
田の 邸と 云 ふに 行當, つ たので 嫩石師 に 聞いた 事 を 思 出して 裏へ 廻る と 小さな 小路で 角に 鶯 横町 と
札が 打って ある。 之れ を 這 入って 黑板 解と 竹 藪の 狭い 間 を 一 一十 間ば かり 行く と 左側に 正 岡 常規と
可也 新しい 門札が ある。 黑ぃ 冠木門 Q 兩 開き戸 を あける とすぐ 玄關で 案 內を乞 ふと 右 脇に ある 臺
所で 何 かして 居た 老母ら しきが 出て 來た。 姓名 を 告げて 漱石師 より 豫て 紹介の あった 害で ある 事
なと 述べた。 玄關 にある 下駄が 皆 女物で 子規の らしい のが 見えぬ のが 先づ 胸に こたへ た。 外出と
云 ふ 事 は 夢の 外ないで あらう。 枕 上 Q しき を 隔て k 座を與 へられた。 初對 面の 挨移も すんで あた
り を 見廻した。 四疊 半と 覺 しき 間の 中央に 床 をのべ て 絲の樣 に瘦せ 細った 身體を 横へ て 時々 咳が
出る と 枕 上 Q 白木の 箱の 蓋 を 取って は 吐き 込んで 居る。 蒼白くて 頰の 落ちた 顔に 力な けれど 一 片
の 烈火 瞳 底に 燃えて 居る 樣に思 はれる。 左側に 机が あって 俳 書ら しい ものが 積んで ある。 机に 倚
る 事 さへ 叶 はぬ ので あらう か。 右 脇に は 句集な ど 取 散らして 原稿紙に 何 か 書き かけて 居た 樣 子で
ある。 一 番目に 止る の は 足の 方の 鴨居に 笠と 簑とを 吊して 笠に は 「西方 十 萬 億 土順禮 西 子」 と
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蚩日 いて ある。 右側 Q 障子の 外が ほと \ ぎ すへ 揭 げた 小 園で 奥行 四 間 も あらう か 获の本 を 束ねた の
が數株 心の 儘に 茂って 居る が 花 はま だついて 居らぬ。 まいかい は 花が 落ちて うてな がま だ殘 つた
儘で ある。 .HI 粉 花ば かり は 咬き 淺 つて 居た が 鵄頭は 障子に かくれて 丁度 見えなかった。 熊 本 Q 近
況 から 漱石師 の 噂に なって 昔話 も 出た。 師は學 生の 頃 は 至つ て 寡言 な溫 順な 人 で舉 校な ども 至つ
て缺 席が 少なかった が 子規 は 俳句 分類に 取り か ^ つてから 缺席 ばかりして 居た さう だ。 師と 子規
と 親密に なった の は 知り合つ てから 四 年 もた つて 後で あつたが 懇意に なると 隨分 子供ら しく 議論
なんかして 時々 喧嘩な どもす る。 さう 云 ふ 風で あるから 自然 細君と いさか ふ 事 も ある さう だ。 其
れを豫 め 知って 居らぬ と 細君 も 驚く 事が あるか も 知れぬ が 根が 氣安 過ぎる からの 事で ある 故 驚く
事 はない。 ー體 誰れ に對 しても あたり 0 良い 人の 不平の 漏らし 所 は 家庭 だな ど 云 ふ。 窒 Q 庭に 向
いた 方の 鴨居に 水 彩畫が 一葉 隣室に 油畫, が 一 枚掛 つて 居る。 皆不 折が 書いた ので 水 彩の 方 は富士
の 六合 目で: 為々 たる 赭土 塊 を 踏んで 向 ふへ 行く 人物 も ある。 油畫は 御茶の 水の 寫生、 餘り 名畫と
は 見えぬ 樣 である C 不折程 熱心な 畫家 はない。 もう 今日の 洋畫 家中 唯一 の 淺井忠 氏 を 除けば いづ
れも 根性 の 卑劣な 娟嫉 の强ぃ 女の 様な 奴ば かりで、 淺井 氏が 今度 洋行す る と-な る と 誰れ も 其 の 後
任 を 引受ける 人がない C ないで はない が淺井 の 洋行が 厭で あるから 邪魔 を しょうと する ので あ も
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記 ふ訪を 庵岸极
驚いた もの だ。 不 折の 如き も近來 評判が よいので 彼等の 妬 を 買 ひ旣に 今度 佛!: 博 覽會へ 出品す る
積り の 作 も 審査官の 黑 K 等が 仕樣 も あらう に零點 をつ けて 不合格に してし まった さう だ。 かう 云
ふ 風で あるか ら眞 面目に 熱心 に 斯道 の 研究 を しょうと 云 ふ考へ はなく 少 しく 名が 出れ ば 肖像 で も
畫 いて 黄白 を 貪らう と 云 ふさ もしい 奴ば かりで、 中に 適、、 不折 の 様な 熟 心 家 は あ る が 貧乏 である
から 思 ふ樣に 研究が 出来ぬ。 そこらの 車夫で も モデルに 雇 ふとなる と 一 日 五 拾錢も 取る。 少し 若
い 女な どになる とどう しても 一 圓は 取られる。 それで 中々 時間 も か,^ るから 研究と 一 口に 云うて
も 容易な 事で はない。 景色 畫で もさう だ。 先頃 上 州へ 寫 生に 行って 廿日 程 雨 Q ふる 日 も 休ます に
畫 いて 歸 って來 ると 淺井 氏が もう 一 週間 行って 直して 來 いと 云 はれた から 又 行って 來て漸 々出來
上った と 云って 居た さう だ。 それで も 兎に角 熱心 が ひどい から 餘り 器用な た ち でもな くま だ 未熟
では あるが 成效 する だら うよ。 矢 張 ほと k ぎす Q 裏繪を かく 爲 山と 云 ふ 男が あるが 此 男は不 折と
丸で 反對な 性で 趣味 も 新奇な 洋風の を 好む。 一 體 手先 は不 折なん かとち がって 餘程 器用 だが どう
も 不勉強で あるから 近 來は少 々不 折に 先 を 越され さうな。 それが ちと 近來 不平の 様で あるが それ
かと 云うて 矢 張 不精 だから 仕方がない。 あの 位の 天才 を 抱きながら 終に 不 折の 熱心に 勝を讓 るか
も 知れぬな ど 話して 居る 內 上野からの 汽車が 隣の 植 込の 向 ふ を ごんく と 通った。 隣の 庭の 折戶 5
の 上に 烏が 三 羽 下りて ガ ー くと なく。 夕日が 疊 半分 程 這 入って 來た。 不 折の 一番 得意で 他に
及ぶ 者の な いのは 日本に 連載す る 様な 意匠 畫で 是れ こそ 他に 類がない。 配合の 巧な 事 材料の 豐富
なのに は 驚いて しま ふ。 例へば 犬 百 題な ど 云 ふ 難題で も何處 かから 村 料 を 引つ ばり 出して 來て苦
もな く 持へ る。 一 體無學 と 云って よい 男で あるから 之れ は 吃 度 僕 等が いろんな 入智惠 をす るの だ
と 思 ふ 人が ある 樣 だが 中 々そんな 事で はない。 僕 等が 夢にも 知らぬ 様な 事が 澤 山あって 一 々說明
を 聞いて 漸く 合點が 行く 位で ある。 どうも 奇態な 男 だ。 先達て 日本 新聞に 揭 げた 古 瓦の 畫 など は
最も 得意で 又 實際眞 似 は 出来ぬ。 あの 瓦 Q 形 を 近頃 秀眞と 云 ふ 美術 學 校の 人が 鑄 物にして 茶托に
こしら へた。 そいつが 出来損な つたの を 僕が 貰うて あるかち 見せよう とて 見せて くれた。 十五 枚
の 內漸々 五 枚 出来た さう で、 其れ も 穴だらけに出来て 中に 破れて 籍 つた Q も あるが、 其れが 却て
一 段の 趣味 を增 して 居る 樣 だと 云うたら 子規 も 同意した。 巧に 古色が 付けて あるから どうしても
數 百年 前 G ものと しか 見えぬ。 中に 蛎牛を 這 はして 「角 ふりわけよ」 の 句が 刻して あるの など は
隨分 面白い。 綺 とちが つて 鑄 物 だから 蝸牛が 大變 よく 利いて 居る とか 云うて 不折も 餘程氣 に 入つ
た樣 子だった。 羽織 を 質入れしても 是非 持へ させる と 云うて 居た さう だと。 話し 半ばへ 老母が 珈
琲を 酌んで 來る。 子規に は 牛乳 を 持って 來た。 汽車が 又 通って 紹據 Q 聲を 打消して いった。 初對
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IS ふ訪を 庵岸极
面から ちと 厚顔し ぃ樣 では あつたが 自分 は生來 緒が 好きで 豫 てよ ぃ不折 Q 翁が 別けて も 好きで あ
つたから 序が あったら 何でもよ いから 一 枚吳れ まい かと 頼んで 下さいと 云ったら 快く 引受けて く
れた Q は 嬉しかった。 子規 も 小さい 時分から 緣畫は 非常に 好きだが 自分 は 一向 かけない C が殘念
でた まらぬ と. i; つて 居た。 夕 曰 は签" 傾いた。 隣 Q 屋敷で 琴が 聞え る。 昔樂は 好き かと 聞く と 勿
論 きら ひで はない が 悲しい 哉 音 樂の事 は 少しも 知らぬ。 どうか 調べ て 見たい と 思 ふけれ 共 此れ か
ら では 到底 駄目で あらう。 尤も 此頃 人の 話しで 大凡 こんな もの か 位 は 解った 樣 だが 元来 西洋の 音
樂 など は 遠くの 昔 バイ オリ ンを 聞いた 計りで ピアノ なんか 一 度 も 聞いた 事 はない からな ほさら 駄
目 だ。 どうかして あんな も Q が 問け る樣 にも 一 度な り 度い と 思 ふけれ 共 其れ も 駄目 だと 云うて 暫
く默 した。 自分 は 何と 云うて よい か 判らなかった。 IhI 然として 吾も默 した。 又 汽車が 來た。 色々
議論 も あ る樣 であるが 日本の 音 樂も今 の 儘で は 到底 見込が な いさう だ。 國が 箱庭 的で あ るから か
昔樂 まで 箱庭 的で ある。 一 度 音樂學 校の 音 樂窒で 琴の 彈奏を 聞いた が 遠くて 琴が 聞え る 位の 事で
物に ならぬ。 矢 張 天井の 俄い 狭い 室で なければ 引合 はぬ と 見える。 それに 調子が 單 純で 彈 する 人
に 熱情がない からな ほ更 いかん。 自分 は 素人 考へ で 何でも 樂器は 指の 先で 彈 くもの だから 女に 適
した ものと 計り 思うて 居た が 中々 そんな 淺 いもので はない。 日本人が 西洋の 樂器を 取って ならす 7
事 はなら すが 音樂 にならぬ と 云 ふ Q はつ まり 彈 手の 情が 單 調で 狂す ると 云 ふ 事がない からで、 西
洋の 名手と 迄 行かぬ 人で も樂の 大切な 面白い所へ くると 一 切 夢中に なって 仕舞 ふさう だ。 これ 計
り は 日本人の 3 具 似の 出来ぬ 事で 致 方がない。 殊に 婦人 は 駄目 だ、 冷淡で 埶 (情がない から。 露 伴の
妹な ど は 一 時評 判で あつたが 矢 張 駄目 だと 云 ふ 事 だ。 {仝 が 曇った のか 日が 上野の 山へ かくれた か
疊の 夕日が 消えて しま ひっくく ほふし の聲が 沈んだ 様になった。 烏 はいつ の 間に か 飛んで 行つ
て 居.^.。 叉 出ます と 云うたら 宿 は何處 かと 聞いた から 一 兩 日中に 谷 中の 禪 寺へ 籠る 事 を 話して 暇
を 告げて 門へ 出た。 隣の 琴の 音が 急に なって 胸 を かき 亂 さる- -樣 な氣 がする。 不知 不識 其方へ と
路次を 這 入る と 道 は 愈 - 狹く なって 井 戶が道 を さ へ ぎって 居る。 其 傍で 若い 女が 米 を 磨いで 居る-
流しの 板の すべり さうな の を 踏んで 向 側へ 越す と 柵が あって 其 上 は 鐵道 線路、 其 向 ふ は 山の 裾で
ある。 其處を 右へ 曲る とやう く廣ぃ 街に 出た から 淺 草の 方へ と 足 を 運んだ。 琴の 音 は 矢 張つ い
て 来る。 道が 又 狭くな つても との 前 田 邸の 裏へ 出た。 こ、 から 元来た 道 i 父 番所の 前 迄 あるいて
こ、 から..^ ら すに 眞 直に 行く と 又 踏切 を 越えねば ならぬ。 琴の 音 はもう ついて 來ぬ。 森の 中で つ
くつく ほふし が ゆるやかに 鳴いて、 日陰 だから 人が 蝙蝠傘 を 阿彌陀 にさして ゆる./^ あるく。 山
の 上に は 人が 澤山 停車場から 凌 雲閣 Q 方 を 眺めて 居る。 左側の 柵の 中で 子供が 四 五 人 石炭 車 に 乘
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貢 己 ふ訪を 庵岸拫
つたり 押したり して 居る。 機關 車が すさまじい 音 をして 小 家の 向 ふ を 出て 來た。 淺 草へ 行く 積り
であった が 折角 根 岸で 味うた 淸閑 Q 情を輕 業の 太鼓 御 賽錢の 音に 汚が すが 廐に なった から 山 下 迄
來 ると 急いで 鐵道 馬車に 飛乘 つて 京 橋 迄 窮屈な 目にあって、 向 ふに 坐った 金緣 眼鏡 隣に 坐った 禿
頭の 行商と 欠伸の 掛け合 ひで 歸 つて 来たら 大通りの 時計 臺が六 時 を 打った。
(明治 三十 二 年 九月)
9
八月 廿六 日 床 を 出 で- -先づ 欄干に 倚る。 空よ く 晴れ て 朝風 や \ 肌寒く 露 の 小 萩の みだれ を 吹い
て葉鵄 頭の 色鮮 かに 穗先大 かた 黄ばみた る ffl 面 を 見渡す。 薄 霧 北の 山の 根に 消え やらす、 柹の實
撒 砂 にかち りと 昔し て 宿 夢 拭 ふ が 如く にさめ たり。 しばらくの 別れ を 握手 に 吿ぐ る 妻が 鬆 の 後れ
毛に 風 ゆらぎて 蚊帳の 裾 ゆら/ \« と 秋 も 早 や 立つ めり。 臺 所に 杯盤の 昔、 戸口に 見送りの 人聲、
はや 出立たん と 吸物の 前にす われば 床, の 間の 三寳 に枳殼 飾りし 親の情 先づ 有難く、 此枳殼 誤って
足に かけ たれば 取り かへ てよ と 云 ふ 人の 情 もうれ し。 盃 一順。 早く 行て 船窒へ 場 を 取り ませねば
と 立 上れば 婢僕 親戚 上り 框に集 ひて 荷物 を 車夫に 渡す C 忘れ物 はない か。 御座り ませぬ。 そんな
ら 皆さん 御機嫌よ くも 云った 積り なれ どや- - 夢心地 なれば たしか ならす。 玄關を 出れば 人々 も 砂
利 を 鳴らして ついて 來る。 用意の 車五輛 口々 に 何やら 云へ どよ く は 耳に 入らす。 から,, と 引き
記 上 東
出せば 後に 又 御機嫌よう. の聲々 餘り惡 からぬ ものな り。 見返る 門 柳 監獄の 壁に かくれて 流れる 水
に漣漪 動く。 韋駄: 大 を 叱す る 勢よ く 松が 端に 馳け付 くれば 旅立つ 人 見送る 人人 足 船頭の Q 、しる
聲々。 車の 音。 端艇 涯を はな るれば 水 棹 Q しづく 屋根板に はらく と 音す る。 舷 Q すれあ ふ音漸
く 止んで 船 は 中流に 出で たり。 水害の-名 殘棒 堤に しるく 砂利に 埋る、 蘆 も あはれ なり。 左側の 水
樓に 坐して 此方 を 見る 老人の あれば 屹度 中風よ と はよ き 見立てと 竹 村 はやせば 皆々 笑 ふ。 新地の
終 歌 聞えぬ が 嬉しくて 丸 山臺迄 行けば 小蒸汽 一 艘 後より 追 越して 行きぬ。
昔 Q 大名 そ れ の 君、 すれち が ひし 船の 早き に 驚いて あ れは何 船と 問 ひ 給 へ ば 御附き の 人々 かし
こまりて、 あれ はちが ひ 船 なれば かく 早く こそと 御 答 へ 申せば、 さらば 其ち が ひ 船 を 造れと 仰せ
られ し勿體 なさと 父上の 話に 皆々 叉 どっと 笑 ふ 間に 船 は 新田 堤に か、 る。 並んで 行く 船に 莉谷氏
も乘り 居て 之れ も 今日の 船に て 熊 本 へ 行くな りと かにて 其 母堂 も 船窓 より 首 さしのべて 挨拶す る
様ち と 可笑しく なりたれ ど、 じっと こら ゆる 內 さし 込む 朝日 暑ければ に や 障子 ぴたりと しめたり。
程なく 新 高 知 丸の 舷側に つけば 梯子の 混雜例 Q 如し。 荷物 を 上げ 座 も かまへ、 まだ 出帆に は 間 も
あれば と 岩驅亭 へつ けさせ 晝 飯した k む。 江上 油の 如く 白鳥 飛んで 愈、、 靑し。 漏 下 0 溜池に 海 蟹
の 鉄 動かす 樣がを かしくて 見て 居れば 人 を 呼, ぶ 汽笛の 聲に 何となく 心 急き 立ちて 端艇 出させ、 道
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中 は 殊更 氣を 付けて と 父上 一句、 さらば 御 無事で と 子供 等の 聲々、 後に 聞いて 梯子 驅け 上れば 艫
に 水. «! く 泡立って あたりの 景色 廻り 舞 臺の樣 にくる くと 廻って ハ ンケチ 帽子 を ふる 見送り C 人
人。 之れ に應 する 乘 客の 數々。 いつの 間に か 船首 を めぐらせる 端艇 小さくな りて 人 G 顏も 分き 難
く なれば 甲板に 長居 は 船 痛 Q 元と 窮屈なる 船室に 這 ひ 込み 用意の 葡萄酒 一 杯に 喉を沾 して 革飽枕
に 横に なれば 甲板に 叉 もや 汽笛の 音。 船 は 早 や 港 を 出る よと 思へ ど 窓外 を靦 く元氣 もな し。 新 小
說 取り出で 丄 K む。 宙外 Q 血 櫻 一 一三 頁 讀 みかくれば 船底に すさまじき 物 昔して 船體に はかに 傾け
り。 i^E 々思 はす 起 上る。 港口 淺 せた る爲キ ー ルの 砂利に 觸る、 なるべし。 餘り氣 味よ からねば 半
頁 程 Q 所讀ん では 居 たれ ど 何が かいてあった かわから ざり しも 後に て 可笑し かりけ る。 船の 進む
につれ て 最早 氣味 悪き 音 はやん で 動搖は 漸く 始 りて 早 ゃ胸惡 きを じ つ と 腹 をし めて 專ら小 說に氣
を 取られる 樣に勉 むれば やうく に胸靜 まり、 さきの 葡萄酒の 醉心。 ほっとして いつしか 書中 C
人となり ける。 ボ I ィの晝 食 をす、 むる 聲 耳に 人り たれ どもと より 起 上る 事 さへ 出来ざる 吾の 漉
茶 一 杯す、 る氣 もな く默 つて 讀み續 くる も 實は此 様なる 靜穩の 海上に 一 杯の 食 さへ 叶 はぬ と 思 は
れん 事 Q 口惜しければ なり。
一 篇廣吿 の 隅々 迄讀み 終りし 頃 は身體 やう やく 動搖 になれ て 心地 や、 すがく しくな り、 半ば
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目 己 上 東
身 を 起して 窓外 を 見れば 船 は 今 { 至 戶岬を 廻 るな り。 百 尺 岩 頭 燈臺の 白堊 日に か やいて 漁 舟の 波
の 內に隱 見す る もの 三 四。 これに 鶏が 飛んで 居た と 書けば 都合よ けれ 共 飛魚 一 つ 飛ばねば 致 方 も
なし。 船 傾く 時 海 亦 傾 い て 深黑 なる 奔潮 天と地と の 問に 向って 狂奔す るかと 思 は る 壯觀は 筆に
も 言語に も盡 すべきに あらす。 甲の 浦 沖 を 過ぐ と 云 ふ頃ハ ッ チ より 釵櫃膳 具 を 取り 下す ボ I ィ Q
聲八ケ ましき は 早 や 夕飯なる べし。 少し 大膽 になり て 起 上り 箸 を 取る に 頭 思の 外に 輕 くて 胸 も 苦
しからす。 隣り に 坐りし 三十 位 Q 叔母 樣の 御給 仕 忝し と 一 碗 を 傾 くれば はや 厥に なりぬ。 寺 m 寅
彥 さんと 云 ふ 方 は 御座らぬ かと わめく ボ ー ィ 0 濁聲 うるさければ 默 つて 居け るが 餘 りに 呼び 立つ
る 故 オイ 何んだ と 起 上れば 贵 方です かと 怪訝 額なる も氣の 毒な り。 何ぞと 言葉 を 和げ て閒 けば、
上等 〔至 £刈 谷さん から 之れ を責 方へ、 と 差 出す 紙 包 あくれば 梨 子 二つ。 有難し とボ ー ィに禮 は 云
う て 早速 頂戴す るに 半分 計 力に して 胸つ かへ たれば 勿體 なけれ ど 殘りは 窓から 外 へ 投げ出し て 又
横に なれば 室內 漸く 暗く 人々 G 苦にせし 夕日 も 消えて 甲板 を 下り 來る人 多くな り、 窮屈 さは 一服
甚だし けれど 吾 一 人に も あらねば 致 方 もな し。 隣り に 言葉 訛り 奇妙なる 一 一人 連の 饒舌 もい びきの
音に 變 つて、 向 ふの せな あが 追分 を 歌ひ始 むれば 甲板に 誰れ の 持て 來 たもの か 轡蟲の 鳴き 出した
るな ど 面白し。 甲板 を あちこち する 船員の 靴 昔が コッリ /.\と 言文一致 なれば 書く 處 なり。 夢 魂
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いつしか 飛んで 赴く 處は鷹 城の ほとりな りけん、 なつかしき 人々 の 顔 まざ. C と 見て は 驚く 舷侧
の 潮の 音。 ねが へ りの 耳に 革 飽の假 枕い たづら に 堅き も 悲しく 心細く われながら 淺猿 しき 事な り。
淺夢 再び さむれば、 もう 神戶が 見えます ると 隣り の 女に 吿 ぐる ボ ー ィ の聲。 さて こそと 遽 に元氣
つきて 窓を观 きたれ ど 月な き 穴 S に 淡路島 も 見え 分かす。 再びと ろくと して 覺 むれば 船 は 旣に港
內に 入って 窓外に きらめく 舷燈の 赤き 靑き。 汽笛の 吼 ゆる 如き 叫ぶ が 如き 深夜の 寂寞と 云 ふ 事 知
らぬ 港ながら 帆柱に ゆらぐ 星の 光 は 追が に靜 かなり。 革飽と 毛布と 蝙蝠傘と を 兩手ー ばいに か、
へ て 狭き 梯子 を 上って E. 板に 上れば 旣に 船は棧 橋へ 着きて 居たり。 ^谷 氏の 昨夕 G 禮 をのべ て 船
を 下り 安松へ 上る。 岡 崎 賢 七と か 云 ふ 人と 同室へ 入れられ、 宅へ 端 書した、 む。 時計 を 見れば ま
だ 三時な り。 しかし 六 時の 急行に 乘る 積り なれば 落 付いて 眠る 間 もなかる べしと 漱石師 などへ 用
もな き 端 書した、 む。 ラムネ を 取りに やれ たれ ど夜屮 にて 無し、 氷 も 梨 も同樣 なりとの 事な り。
退屈 さの 茶 を 啜れば 胸 ふくれて 心地よ からす。 鬼 角す る內 東の 穴于; II み 渡りて 茜の 一抹と 共に 星の
光 まばらに なり、 軒下に 車の 音し げくな り、 時計 を 見れば 旣に五 時半な り。 急いで 朝飯 かき 込み
岡 崎 氏と 停車場に 馳 けっくれば 用拾氣 もな き 汽車 進行 を 始めて 吐き出す 煙の 音乘り 遲れし 吾等 を
嘲る が 如し。 珍しき 事に も あらね ど 忌 々しきもの なり。 先づ 荷物 を 預けん とて 二人の を 一緒に 衡
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記 上 東
らす。 運 賞 贰圓と は 馬鹿々々 しけれ ど 致 方 もな し。 楠 公へ でも 行くべし とて 出立たん とせし がま
てし ばし 余 は 名古屋 にて 一 泊 すれ ども 岡 崎 氏 は 直行 なれば 手荷物 は 矢 張 別にすべし とて 再び 切符
の 切り 換へを 求む。 驛 員の 不機嫌 顏 甚だしき も官線 は 矢 張官線 丈け の權 力と か 云 ふ もの あるべし
と、 かしこみ て 願 ひ 奉り 漸 々 切符 を 頂戴し て 立ち い づれば 吹き 上ぐ る 朝 嵐に 藁帽 飛ん でぬ かるみ
を 走る 事數 間、 漸く 追 付きて 取 止め たれ ど 泥に まみれて 餘り 立派なら ぬ帽の 更に 見ば え を 落した
る 重ねく の 失敗な り。 旅 なれば 之れ も 腹 は 立た す。 元 町 を 線路に 沿うて 行く。 道 傍 Q 氷 店に 入
つて ラムネ 一 瓶に 夜来の 渴望も 滿 したれば こ 、に 小荷物 を 預けて 楠 公祠迄 行きたり。 龜の 遊ぶ の
を 見たり と て 面白 くもなし 湊川 へ 行て 見ん とて 堤 を. 上 る。 晝 なれば 白面 の 魎魅も 影 を かくして 軒
を 並ぶ る小亭 閑と して 人の 氣 ある は 稀な り。 並木 G 影 涼しき 所 木の 根に 腰かけて 憩へば 晴嵐 梢 を
鳴らして 衣に 入る。 枯枝を 拾 ひて 砂に 嗚呼 忠臣な ど 落 書 すれば 行き来の 人 吾等 を 見る。 半時 間 程
も兩人 無言に て 美人 も 通り さう にもな し C 漸々 立上りて 下流へ 行く。 河と は 名ば かりの 黄色き 砂
に 水の 氣 なくて、 照りつ く 日 Q きらめく 暑さうな り。 川口に 當 りて 海面 鏡の 如く 帆船の 大き 小さ
きも 見 ゆ C 多 門 通より 元の 道に 出. て 又 前の 氷屋に 一杯の 玉壺を 呼んで 荷物 を 受取り 停車場に 行く。
今 漸く 八 時 なれば まだ 四時 問 はこ 、に 待つべし と 思へば 堪 へられぬ 欠伸に 向 ふに 坐れ る 姉 様け
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ん 額して 吾 を 見る。 時 維れ 金と 云 へ ば此 四時 間 何 金に 當るゃ 知らね ど あくびと 煙草の 煙に 消す も
殘念 なり、 いざや 人物の 觀察 にても 始めん と 目 を 見開けば 隣り に 腰かけし 印 半天の 煙草の 火 を 借
ら ん と て 誤りて 我 手 に 火 を 落し あわて、 引きの けたる 我が さまの 吾ながら 可笑し けれ ば 思 はす 噴
出す" 此男バ ナ 、 と 隱元豆 を 入れた る提 籠を携 へたる が領 しるしの 水雷 亭とは 珍しき と 見て 居れ
ば やがてべ ンチの 隅に 倒れて ねて しま ひける。 富 米 野と 云 ふ 男 熊 本に て 見知りた る も 来れり。 同
席な りし 東 も 來り野 並も來 る。
こ \ へ 新に 入り 來 りじ 一 一人 連 は いづれ 新婚旅行と 見ら る k 御 出立。 すぢ向 ひに 座 を 構へ 玉 ふ を
懵の 庇より うか 1. ひ 奉れば、 花 Q 御かん ばせ すこし 瘦せ玉 ひて 時々 小 聲に何 を か 物語り 玉 ふ雙頰
に 薄紅 さして 面 は ゆげな り。 人々 の 視線 一度に 此方へ 向へば 新郎の パナマ 帽 もうつ むきけ る。 此
一 一人 問 もな く 大阪行 Q にて 去る。 引きち がへ て 入り 來る 西洋人の たけ 低く 顔の たけ も 著しく 短き
が 赤き 額に こればかり 立 泥なる 鬚 ひねりながら 煙草 を 人力に 買 はせ て 向 側の ブラ ッ トフ ォ I ムに
腰 を かけ 煙草 取り出して 鬚 を かき 上ぐ るな ど餘り 上等 瓧會 にも あらざる べし。 之れ と 同じ, H 衣 着
けたる 連れの 男 は 額 長く 頻髯 見事 なれ ど 歩み方の 變 なる は 義足なる べし。 此間 改札口 幾度 か 開か
れ又閉 ぢられ て 汽笛の 止む 間 もな し。 人 來り人 去って いつ 迄 も 待合の 隅に 居 殘るは 吾等の みなる
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記 上 束
ぞ つまらなき。 漸く 十一 一時と なりて、 プラット フォ ー ム に 出 でんと すれば 此 次の なりと て つき か
へされし、 重ねく Q 失敗な りけ る。 やう やくに して 新橋 行のに 乘り 込む。 客車 狹 くして 腰掛の
うす 汚き も 我慢し て 座 を 占 むれば 窓外 の も Q 動き 出し て 新聞 責の聲 後になる。 右に は 未だ 靑き稻
田 を距て X 白砂青松の 中に 白堊 Q 高樓 蟹の 鹽屋に 交り、 其 上に 一 抹の 海靑く 汽船の 往復す る 見 ゆ。
左に 從ひ來 る 山々 山 骨 黄色く 現 はれて まばらなる 小 松ち びけ たり。 中に 免の 鉢 を 伏せた らんが 如
き 山 見え隠れ する を 向 ひの 商人 體 Q 男に 問 ふ。 何とか 云 ひし も 車の 音に 消されて 判らす。 再三 問
ひかへ せし も 訛の 耳 なれぬ 故 か 終に わからす。 氣の 毒に も あり 可笑しく も あれば 終に 其 儘に 止み
ぬ。 後に て 聞けば 甲 山と 云 ふ 由。 あたりの 山と 著しく 模様 變れる は いづれ 別に 火山 作用に て 隆起
せる なるべし。 此れ Q みは 樹木 黑く 茂りたり。
蟬な くや 小 松 まばらに 山 禿たり
など 例の 癖 そろく 出で 來る。 大阪 にて 海 南學校 出ら しき 黑挎 下り、 乘 客も增 したり。 幸に 天氣
餘り 暑から ざれば 左 迄に 苦しから す。 山 崎 を 過 ぐれば 與 一兵衛の 家 はと 聞け ど 知る 人な し。 勘 平
らしき 男 も 見え. や、 只 隣り の 男の 眼 付 や \ 定九郞 らしき ばかりな り。 五十 位の 田舍 女の 櫛 取り出
して 頻りに 髮梳る を どちら 迄と 問へば 「京 迄 行く のでがん す。 息子が 來 いと 云 ひます のでな あ」
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と 言葉つ き 不思議なる を、 國 はと 問へば 廣島 近在の ものなる. s。 飾- m ー點 なき も樸柄 Q さま 氣に
入りて さまぐ 話しな どす る內 京都々 々と 呼ぶ 車掌の 聲 にあわた しく 下りた るが 群集の 屮 にか
くれたり。 京に 入りて 息子と かの 宿に 行く 迄の 途中い さ \ か覺 束な く 思 はる、 は 他人の いらぬ 心
配 か は 知らす。 やがて 稻荷を 過ぐ。 伏 見 人形に 思 ひ 出す 事 多く、 祭り 日の 條立 並ぶ 景色に 松簟添
へて 畫 きし 不 折の 筆な ど 胸に 浮びぬ。 山 科 を 過ぎて 竹薮ば かりの 里に 入る。 左手の 小高き 岡の 向
ふに 大石 內藏 助の 住家 今に 殘れ る. s。 先づ となせ 小波が 道行 姿 心に 浮ぶ も 可笑し。 ゃ\暴 り 初め
し 空に 篁の 色い よ./ \\ 深く して 淸く靜 かなる 里の さまい となつ かしく、 願く ば 一度 は此 Jell- にしば
らくの 假り Q 庵 を 結んで 篁の 蟲の聲 小 田の 蛙の 音に うき 世の 塵に 汚れた る 腸す,^ がんな ど 思 ふ 中
汽車 はいつ しか 上り坂に か、 りて 兩側 Q 山 迫り 來る。 山 田の 畔 にしれ いの 如き 草花 面. R き は 何と
云 ふ も Q にや。 この 邊り迄 畑 打つ 男女 何處 となく 悠長に 京び たるな ども うれし。 茶畑 多く あり。
春 なれば 茶摘み の 樣 汽車 Q 窓 より 眺めて 白 手拭 の 群に あばよ などす るも與 あるべし など 思 ひけ る。
大 谷に 着く。 此上は 逢坂な り。 此名を 聞きて 思 ひ 出す 昔の 語り草 はなら ぶる も 管なる べし。 さね
かづら と は どんな もの かしらす、 蔦 這 ひで る 崖に 淸 水した、 つて 線路 脇 Q 小 溝に 落つ る 音 涼し。
窓より 首 さし のべ て 行 手 を 見る に隨道 眼前に 眷 然として 向 ふの ロ錢 のま はり 程に 見 ゆ。 之れ を la
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記 上 東
ぐれば 左に 鴻 Q 海 蒼く して 漣漪 水色 縮緬 を 延べた らん 如く、 遠山 糢糊 として 水 Q 果て も 見え. や。
左に 近く 大津の 町 つらなりて、 三 井寺 木立に 見え かくれす。 唐 崎 は あの 邊か など 思へ ど 身 地 を 踏
みし 事なければ 堅 田 も 石山 も 粟津 もす ベ て 判らす。 九つ の 歳 父母に 從 うて 東海道 を 下りし 時 こ \
Q 水 樓に繊 魚の 燒 Q 骨と 肉と が 面白く 離る \ を 面白がりし 事な ど 思 ひ 出して は此頃 0 吾な つか
しぐ、 父母の 老い 給 ひぬ る 今 悲し かり。 さて は白灣 子と 共に 名 古屋に 遊びし 歸途 伊勢 を 經て雪 夜
こ \ に 一夜 を 明せ し 淋し さな ども さま, ^低ば る。 草 津の姥 が 餅 も 昔の なじみ なれば 求めん と 思
ふ 中 汽.: 卑 出で たれば 果 さす。 瀨 SQ 長 橋 渡る 人 稀に、 蘆 荻 徒に 風に 戰ぐを 見る。 江 心 白帆の 一 つ
二つ。 淺き 汀に 臉樣の もの 立て 廻せ る は 漁りの 業なる べし。 百足 山 昔に 變ら す、 田 原 藤 太の 名と
共に いつ 迄 も稚き 耳に 響きし 事 は 忘れざる べし。 湖上の 景色 見 飽かざる 間に *i 根城 いつしか 後に
なり、 膽吹 山に 綿雲 這 ひて 美 濃路に 入れば 空 は 雨模様と なる。 大 垣の 商人ら しき 五十ば かりの 男
頻りに 大 垣の 近況 を 語り 關が原 Q 戰を說 く。 あたり 漸く 薄暗く 工夫 體の男 甲走りた る聲 張り上げ
て 歌 ひ 出せば 商人の 娘堪へ かねて キ、 と 笑 ふ。 長 良 川 木曾川い つの 間に か 越えて 淸洲と 云 ふに、
此次は 名古屋 よと 身 仕度す る 間に 電燈の 蒼白き 光 aw れる 空に 映 じ、 はやさら ばと 一行に 別れて プ
ラッ トフ ォ I ムに 下り立つ。 丸 文へ と 思 ひしが 知らぬ 家も與 あるべし と 停車場 前の 丸 萬と 云 ふに
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入る。 二階の ー窒狹 けれ 共 今宵 は ゆるやかに 寢る べしと 思へば 船中の 窮屈 さ 蒸 暑さに くらべて 中
中に 心安 かり。 浴後 の 茶漬 も 快く、 窓 によれば 驟雨 沛然 として トタン 屋根 を傳 ふ 點滴 の 昔す し
く、 電燈の 光地 上に うつりて 電車の 往き かふ 音 も 騒がしから す。 かう なれば 宿帳つ けに 來し 男の
濡れ 髮 かき 分けた る も 涼しく、 隣室に チ リンと 鳴る コップの 音 も 涼しく、 向 ふの 窒の攔 干に 倚り
し 女の 白き 浴衣 も 涼しげ なり。 昨日より Q 疲れ 一時に 洗 ひ 去られし 樣 にてから だ Q びくと なる *
手 を拍ち て 床 をのべ させ 横に なれば 新しき 浴衣の 肌 さは り も 快く、 隣窒 の 話聲 遠き 様に 聞え し 後
は 魂 いづこ へ か 飛んで 藻ぬ けの 殼 となり 電燈 消しに 來し事 もい つか 知らす。 圓 かなる 夢 百 里の 外
に 飛んで 眼覺 むれば 有 明 Q 親燈 蚊帳 0 外に 朧に、 時計 を 見れば 早 や 五 時な り。 手 洗 ひ 口す、 ぎな
どす る內空 ほの ぐと 明け はなれた るが 昨夜の 雨の 名殘 まだ 晴れ やらす、 蚊帳 を まくる 風し めつ
ぼき も心惡 からす。 膳に 向へば 大野 味 汁。 秋 琴 樓に假 寓の昔 も 思 ひ 出さし む。 勘定 をす ませ 丸
く 肥え太り たる 脊 低き 女に 革飽 提げさして 停車場へ 行く 樣、 瘦 馬と 牝 豚の 道行と も 見るべし と 可
笑し。 此豚 存外に 心 利き. たる 奴に て 甲斐々々 しく 何かと 世話し 吳れ たり。 間もなく 驅け來 る 列車
の 一 隅に 座 を 構へ て 煙草 取り出せ ばべ ルの音 忙しく 合圖の 呼子。 汽笛の 聲。 熱 田の 八劍森 陰より
し拜 みて セ メ ン ト會 社の 煙突に 白灣 子と 燒芋 かじりながら 此 あたり を 徘徊せ し當時 を 思 ひ 浮べ
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記 上 束
て は宮川 行の 夜船の 寒さ。 さて は 五十鈴の 流 一 一見の 濱 など 昔の 草枕に て 居眠りの 夢 を 結ばん とす
れ 共なら す。 大府岡 崎 御油なん ど 昔し Q ばる、 事 多し。 豐橋も 後に なり、 鷲津 より 舞 坂に か- -る
頃より は 道 漸く 海岸に 近づきて 濱 名の 湖 窓外に 靑く、 右に は 遠 州洋杳 として 天に 連る。 漁 舟 江 心
に 向 ひて こぎ 出せば 欸乃 風に 漂うて 白砂 Q 上に 黑き 鳥の 群れ 居るな ど は 十六夜 日記 其 儘な り。 濱
松に て は 下りる 人 乘る人 共に 多く 窮屈 さ 更に 甚だしく なりぬ。 掛 川と 云へば 佐 夜の 中 山 はと 見廻
せど 僅に 九 歳の 冬 此處を 過ぎし なれば あたりの 景色 更に 見覺 えなく、 島 田 藤 枝な ど 云 ふ 名 Q み 耳
に 续れる 位 なれば 覺束 なし。 金 谷の 隊道 長くて 灯を點 したる、 之れ は 昔 蛇の 住みし 穴 かと 云 ひし
しれ 者の 事な ど 思 ひ 出す。 靜 岡に て乘客 多く 入換 りたれ ど 美人ら しき は 遂に 乘ら す。 東の 方 は 村
雨す と覺 しく、 灰色の 雲の 中に 隱見 する 岬 頭い くつ 模糊と して 墨 緒に 似たり。 其れに 引き かへ て
西の 空 麗しく 晴れて 白砂青松に 日の 光鮮 なる、 之れ は 水彩畫 にも 譬ふ べし。 雨と 晴 との 中に あり
て 雲と 共に 東へ くと 行く なれば、 ふる かと 思 へ ば 晴れ 晴る、 かと 思 へ ば 又 大粒 Q 雨 玻璃 窓を斜
に 打つ 變幻 極り なき 面白さに 思 はす 窓緣 をた.^ いて 妙と 呼ぶ。 車の 音に 消されて 他人に 聞え ざり
しこ そ 仕 合せな りけ る。
大 井川の 水 涸れく にして 蛇 籠に 草 離々 たる、 越す に 越され ざり し朝貌 日記 何とかの 段 は更な
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り、 雲助と か G 肩に よって 渡る 御 侍、 磧に鋭 杖 立て よむ 行脚な ど 廻り 燈 籠の 様に 眼前に 浮ぶ
心地 せらる。 街道の 並木 Q 松 さすがに 昔の 名淺を む れ ども 道 脇 の 茶」 徒 にあれ て 鳥 毛 挾 箱 C 行
列 見る に 由な く、 僅に 馬士 歌の 哀れ を 止む る Q みなる も改る 御代に 餘 命つな ぎ 得し 白髮の 媼が圍
爐裏 Q そばに 水湊す 、 りながら 孫 玄孫 へ 0 語り草な るべ し。
此 あたり Q 景色 北齋が 道中 畫譜を 其 儘な り。 興津 を 過ぐ る顷は 雨と なりたれば 富 士も三 保 も 見
えす、 眞靑 なる 海に 白浪 風に 騷ぎ 漁る 船の 影 も 見えす、 礎 邊の砂 雨に ぬれてうる はしく、 先手の
隨, 道 も 亦畫中 c: も C なり。
此 鹿小驛 ながら 近來 海水浴場 開けて 都府 Q 人士の 避暑に 來 るが 多ければ 次第に 繁昌す る 由な り。
岩 淵 の 邊甘 11^ 畑 多く あり。 折 柄 畑 に 入る、 肥料なる ベ し 異様 Q か ほり 鼻 を 突きて 靜岡 にて 求めし
辨當 開ける 人 Q 胸惡く せし も 可笑し か りけ る。 沼 津を過 ぐれ 共 雨雲 ふさがりて 富士も 見えす。
御殿場に て乘客 更に 增 したる 窮屈 さ、 かう なれば 日 Q 照らぬ がせ めても 仕 合せな り。 小山。
山 北 も 近けば 道 は 次第 上りと なりて 溪流 脚下に 遠く 昔 あり。 一 八 Q 屋根に 鷄 鳴きて 雨を帶 びた る
風 山 E に 青く、 車中に は 御殿場より 乘 りし 爺が 提げた る鈴蟲 なくな ど、 海 拔幾百 尺の 靜 かさ 淋し
ささ まぐ に 嬉しく、 哀れ を 止む る 馬士歌 C- 箱 根 八 里 も 山 を 貫き 溪を かける 汽車 なれば 關 守の 前
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記上朿
に 額 地に すりつ くる 面倒 もなければ 煙草 一 服の 間に 山 北に つく。 一 しきり 來る 村雨に 鮎の 鮮賫る
男の 袖し と なる も あはれ。 此 あたり 複 線路の 工事中と 見えたり。 山霧 深う して 記 號標の 芒の 中
に 淋しげ なる、 霜夜の 頃 やい かに 淋し からん。 -
これより 下り坂と なり、 國府津 近く なれば 天 又 晴れたり。 今 越えし 山に 綿雲 か、 りて 其處 とも
見え 分かす。 さきの 日 歸府津 にて 宿 を 担 まれ 漸くに して 搜し當 てた る 町外れの 宿に 一 一階 0 敍歌を
騒がしが りし 夕、 夕陽 Q 中に 富 士足柄 を 望みし 折の 嬉し さな ど 思し 出して は あの 家 こそな ど 見廻
す內 にこ \も 後に なり、 大礎 にて は 又 乘客增 す。 海水浴が へりの 女の 群の 一様に 犬なる 藁 帽子 か
ぶりた るな ど 目に 立つ。 柵の 外より 頻りに 汽車 Q 方を靦 く美髯 公の いづれ 御前ら しきが 額 色 Q 著
しく.; n き 西洋人め くな ど 土地柄 なるべし。 立派なる 洋館 も 散見す。 大船に て 横須賀 行の 軍人 下り
たるが 乘客は 矢 張增す 計りな り。 隣り に 坐りし 靜 岡の 商人 一 一人し き リに關 西の 暴風 を 語り 米 相場
を說 けば 向 ふに 腰かけし 文身の 老人 御殿場 Q 料理屋の 亭主と 云 へ るが 富士 登山の 景況 を 語る。 近
頃 は 西洋人 も 婦人 迄 草鞋に て 登る. H なりな どし きりに 得意の 樣 なりし が て は 問 はす 語りに 人の
難儀 をよ そに 見られぬ 私の 性分 迄 かつぎ 出して 少時 も燒 舌り 止めす、 面白き 爺さんな り。 程が 谷
近く なれば 近き 頃 Q 撗濱の 大火 乘客 Q ^柄 を 賑 はす。 之れ よ り 急行 となりた れ ば 祌奈川 鶴 見な ど
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は 止ら す。 夕陽 海に 沈んで 煙波 杳 たる 品 川の 灣に七 砲臺朧 なり。 何の 祝宴 か 礎邊の 水樓に 紅燈山
形に つるして 殺 歌 湧き、 沖に 上ぐ る 花火 夕闇の 空に 聲 なし。 洲 崎の 灯影 長う して 江 水 漣漪淸 く、
電燈 煌と して 列車 長き プラット フォ ー ムに 入れば 吐出す 人波。 下駄の 昔 靴の ひ i.- き。
(明治 三十 二 年 九月)
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記る あ 曰 半
半日 ある 記
九月 廿 四日、 日曜日、 空よ く 晴れて 暑から. や 寒から す。 數學の 宿題 も 午前の 中に 片付け たれば
午後 半日 は 思ふ傣 遊ぶべし と 定まれば 晝飯待 遠し。 今日は 彼岸に や 本堂に 人數多 集りて 和 尙の稱
名 Q 聲ぃ つもより は 高らかなる など 寺の 內も 今日は 何となく 賑 かなり。 線香と 花 估る.^ 事 頻りに
小僧 幾度 か 霧 引きす つ て 墓場 を 出 つ 入りつ。 木魚の 音の ボ ン くた る を 後に 聞き 朴齒 の 木履 カラ
つかせて 出立つ。 近邊の 寺々 いづこ も 參詣人 多く 花屋の 店頭 黄なる 赤き 菊 蝦夷菊 堆し。 と ある 杉
垣の 內を覼 けば 立 並ぶ 墓碑 苔黑き 中に まだ 生々 しき 土饅頭 一 つ、 其 前にぬ かづきて 合掌せ る は 二
十 前後の 女 三人と 稚き 女の子 一人、 いづれ も 身なり 賤 しからぬ に 白粉 氣 なき IdT の 根 色白し。 墓前
花堆 うして 香煙 空 しく 迷 ふ 塔婆 Q 影、 木の間 もる 日光 を あびて 骨 あら はなる 白張燈 籠目に 立つな
ど さまぐ 哀れな りけ る。 上野へ 入れば 往来の 人 漸くし げく、 ステッキ 引きす る 書生の 群 あれば 2
盛裝 せる 御壤樣 坊ちゃん 方 を はじめ、 自轉車 はしらして 得意 氣 なる 人、 動物園の 前に 大口 あいて
立つ 田 舍漢、 乘車 をす \ むる 人力、 イラ ッ シャイ を 叫ぶ 茶店 Q 女な ど 並ぶ る は 管な り。 パノラマ
館に は 例によって 人 を 呼ぶ 樂隊の 音 面. tn さう なれば 吾 も 叉 例によって 足 を 其方 へ 運ぶ。 又 右手 の
小高き 岡に 上って 見下せば 木の 問に つに く 車馬 老若の 絡緯 たる、 秋 なれ ども 人 Q 額の 淋し さうな
る はなし。 杉の 大木の 下に 床几 を 積み上げ たるに 落葉 や、 積り て 鳥の 糞の 白き 下に は 小^生 ひ 茂
りて 土す ベ り 勝ち な るな ど雜鬧 Q 中に 幽趣 あ るは此 公園 の特徵 なるべし。 西鄕像 の 方へ 行き たれ
ども 書生 Q 群 多くて うるさければ 引き かへ しパ ノラ マ 館 裏手 Q 坂 を 下る。 こ 、は 稍靜 かなれ ど 紅
塵 漸く 深く 鐵道 構內の 煤煙 風に 迷 ふもうる さし。 踏切 を 越えて 通り か- - りし 鐵道 馬車に のる。 乘
客 多くて 坐る 餘地 もなければ 入口に 凭れて 倒れん とする 襄 幾度。 公園 裏にて 下り 小路 を 入れば 人
の往來 織る が 如く、 壯士 芝居 あれば 娘 手 踊 あり、 輕業 カツ ボレ 浪花 踊、 評判の 江川の 玉 乘に タツ
タ三錢 を 惜しみ 玉 はぬ 方々 に滿 されて 嚷 子の 音 只八ケ まし。 猿に 餌 を やる どれ 程 面白き か 知らす。
魚 釣 幾度 か 釣り 損ねて 漸く 得た る 一 尾に 笑輕 傾く る 少年 歸 つて ォッカ サンに 何 を はなす か。 寫眞
店の 看板 を 見る 兵隊さん。 鲤に 鉄を投 ぐる 娘 Q 子。 凌雲 閣 上人 豆の 如しと 思 ふ 我 を 上より 見下し
て蛆の 如しと 嘲りし 者 ありし や 否や。 右へ 迥れば 藤棚 G 下に 「御子 供 衆へ C 御 土 產ー錢 から 御座
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記る あ 日 半
ります」 と聲々 に 叫ぶ 琉具賨 りの 女の子。 牡 fl: 燈籠 とかの 活 人形 は 其 脇に あり。 酒 中花缺 皿に 開
いて 赤け れ共買 ふ 人 もな く て 爺が 煙管 頻りに 煙 を 吐く。 蓄昔機 今 音羽屋 の辨天 小僧に して 向 ひの
壯士腕 を まくって 耶蘇 敎を 攻擊 する あり。 曲 誓き のお ぢ さん 大黑; 大の耳 を 書く 所。 砂 書きの 御 婆
さん 「へ ー 有難う、 もう ソ チラの 方 は御濟 になり ました かな I、 もうありません かな 1。」 へ ー
有難う これから 當世 白狐 傳を 御覽に 入れる 所な り。 魔 除 鼠 除け 文、 さて は 唐 竹 割の 術より 小
よりで 装 を 切る 傳迄十 錢の處 二-一 錢 迄に 勉强 して 敎 へる 男の 武者修行め きたるな ど。 ちと 人が 惡ぃ
樣 なれ ども 一切 只に て拜 見した る 報 は 覿面、 腹に はかに 痛み 出して 一歩 も あゆみ 難く なれり。 近
きべ ンチ へ 腰 を かけて 觀音様 を 祈り 奉る 俄 信心 を 起す も 靈驗の ある 害な しと 顔をしかめながら 雷
門 を 出 づれば 仁王の 顏 いつもより は 苦し。 仲 見 世の 雜鬧は 云 はす も あるべし。 束 橋に 出づ。 腹痛
や \ 治まる。 向 ふへ 越して 交番に 百花 園への 道 を 尋ね、 向島 堤 上の 砂利 を 蹴って 行く。 空い つ Q
間に か 曇りて ボッリ ./\顏 にお つれ ど さした る 事 もなければ 行 手 を 急いで h へ ./\と 行く。 道 右
へ 廻りて 兩 側に 料理屋 茶店な ど 立 並ぶ 間 を 行く。 右手に 荻の 圜と掛 札 ある 家 を、 これが 百花 園 か
と 門 內を靦 くに、 どうやら 變 なれば、 客 待の 車夫に 問 ふに、 百花 園 はま だすつ と 先な り。 大 倉の
S 莊 Q 石垣に、 白 赤の 萩 溢る、 が 如きに、 ニ輛の 馬車 門 を 出で \ 南へ 馳せ 去りた る、 あれ は 喜 八
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郞の 一家 か、 車上の 男女いた く 澄まし顔な るが 先づ 瘤に 觸り ける。 三 圍の稻 荷 堤 上より 拜し、 腹
まだ 治まらねば 圑子 かじる 氣も なく、 漸く 百花 園への 道 札 見付けて 堤 を 右へ 下り、 小 溝に 沿うて
まがりくねりの 道 を 行く 半 町ば かり。 道 傍、 溝の 畔に获 みだれ、 小さき 社の 垣根に 鷄頭 赤き など、
早く も 園に 入りた る 心地す。
此邊 紺屋 多し。 園に 達すれば 門前に 集 ふ車數 知れす。 小 門 清楚 、「春夏秋冬 花 不斷」 の掛額 もさ
びたり。 門 を 入れば 萩先づ 目に 赤く、 立て 並べた る自轉 車お びた^し。 左 脇の 家に 人 數多集 ひ、
念佛 Q 聲洋々 たる は 何の 吊 ひか。 其 隣に 樂燒の 都鳥な ど 賣る店 ぁリ。 之れ に續く 二三。 前に
夕顏棚 ありて 下に 酒 酌む 自轉 車乘の 一隊、 見る から 殺風景な り。 其 前 は 一面の 秋草 原。 芒の 蓬々
たる あれば 获の 道に 溢れん とする、 さて は 芙蓉の 白き 紅なる、 紫苑、 女郎花、 藤挎、 釣鐘 花、 虎
の 尾、 鶏頭、 鳳仙花、 水引の 花 さまぐ に 唆き 亂れ て、 徑其 間に 通じ、 道 傍に 何々 稼の 立つな ど
あり。 中に 細長き 池 あり。 荷葉 半ば 枯れなん として 見る 影 もな きが 一 入 秋草の 色に 映りて 面白し。
春 夏の 花木 も あれ 共 目に 入らす。 しのぶ 塚と 云 ふ を 見て 居る 內我を 呼びかける 者 あり。 ふり かへ
れば森 田 Q 母子と 田 中 君な り。 連立って 更に 園 をめ ぐる C 草花に 處々 釣り下げ たる 短冊 旣に 面白
からぬ に 其 裏 を 見れ ば 鬼 ころしの 廣吿. ず り 嘔吐 を 催す ばかり-なり。 秋草に は束髮 C 美人 を 聯想す
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記る あ 日 半
など 考 へながら こ&を 出で たり。 腹痛 漸く 止む。 鐘が 淵 紡績 Q 煙突 草 後に 聳え、 右に 白き は 大學
Q ボ ー ト ハウス なるべし、 端艇 を乘り 出す 者 二三。 前 は 櫻 樹の隨 道、 花時 思 ひやら る。 八重 櫻 多
き 由 なれ ど 花なければ 吾に は 見分け 難し。 植 半の 屋根に 止れ る鳶ー 一羽 相對 して さながら 瓦に て 造
れる樣 なる を瓦ぢ ゃ鳥ぢ やと 云ふ內 左なる 一 羽 嘲る が 如く 此方 を 向きた るに 皆々 どっと 笑 ふ。 道
傍に 並ぶ 柱燈 人造 麝香の 廣吿 なりと 聞きて は 嬉しから す。 波頭に 下り立ちて 船に 上る。 千 住
より 0 小蒸汽 けた ,^ ま しき 笛なら し て 過 ぐれ ば 餘波舷 を あ ほる 事 少時。 乘客 間もなく 滿ち て 船 は
中流に 出で たり。 雨 催の {仝 燭 江に 映りて、 堤 下の 杭に 漣漪 寄す る も、 蘆 荻の 聲靜 かなりし 昔の 様
尋 ぬるに 由な く、 渡 番小屋に ぺ ンキ塗 Q 廣吿 看板 か& りて は 簑 打ち 拂ふ 風流 も 似合 ふべ くも あら
す。 今 戸の 渡と 云 ふ 名ば かり は 流石に 床し。 山 谷 堀に 上れば 雨 はらく と 降り 來るも 場所柄 なれ
ば 面白き 心地 もせら る。 さりと て 傘 持たぬ 一同、 たと へ 張子なら すと も 風邪な ど 引いて は 面白 か
ら ねば 大急ぎに て 雷 門前 迄馳け 付く。 先を爭 ひて 馬車に 乘 らんと あせる 人 狂氣の 如く、 見る 間に
滿員 となりて 馳せ 出せば 友に はぐれて 取り 殘 さる、 人 も 多し。 來る 馬車 もく 皆滿 員と なりて 乘
る 折 もな し。 婦人 連れ の 事 なれば 奮發し て漸々 上等に 乘れば 之れ も 矢張ギ シ つみに て 呼吸 も出來
ざる を 新々 1.」 して 上野へ 着けば 雨 も 小 止みと なりけ る。 こ i に 一行と 別れて 山內に 入る。
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人漸々 散 じて 後れ 歸る もの 疎な り。 向 ふより 勢よ く 馳せ來 る 馬車の 上に 端坐せ る は 瀟洒た る 白
面の 貴公子。 たしか 太陽の ロ繪 にて 見た る 様な りと 考 ふれば、 さなり 三條君 美の 君よ と 振 返れば
早 や 見え ざり ける。 叉 降り出さぬ 間と 急いで 谷 中 へ 歸れば 木魚の 昔又ボ ン/ \«.,^。
(明治 一二 十二 年 九 =0
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天幕の 破れ 冃 から 見 ゆる 砂漠の 签の 星、 駱駝の 鈴の 音が する。 背戸の 田圃の ぬかるみに 映る 星"
粗 磨 歌が 聞え る。 甲板に 立って 帆柱の 尖に 仰ぐ 星、 船 《K で 誰 やらが 欠び をす る。
• (叨治 111 十二 年 十月、 ホトト ギス)
毎年 春と 秋と 一度 づ& 先祖 祭 をす るの が 我家の 例で ある。 今年の 秋 祭 は 我が 歸街屮 にとの 雨 親
の考 へで 少.^ 繰り上げて 八月 某日に する 事と きめて あつたが、 數日來 のしけ で 御 佻 物 希がない 爲
三日 延びた。 其 朝 は 早々 起きて 物置の 二階から 祭壇 を 下し 煤 を 拂ひ雜 巾 を かけて 壇 を 組みた てよ
うとす ると、 さて 板が そり かへ つて 居て 中々 思ふ樣 にならぬ 0 を やう やくた、 き 込む。 其 ii に 父
上は戶 棚から 三寶 をい くつ も 取 下して 一 々布巾で 淸 めて 居られる。 いや 隨分亂 暴な 鼠 Q 糞ぢ や。
つ 、み 紙 も處々 食 ひ 破られた 跡が ある。 こ 、に 黄ばんだ しみ G あるの も 鼠の い たづら ぢ やない か
しらんな ど 獨語を 云 ひながら 我 も 手 傅うて 大方 三 寳の淸 めも濟 む。 取 散らした 包紙の 徽奥 いのは
奥の間の 緣へ はふり 出して 一 べん 掃除 をす る。 置 所から 色々 の 供物 を 入れた 叭を 持って くる。 父
上 は 此れに 一 々水引 を かけ 綺麗に はし を 揃へ て、 さて 一 々靑ぃ 紙と 白い 紙と をし いた 三寶 へのせ
る。 あたり は 赤と 白と^ 水引の 屑が 茄子の 莖人蔘 の 葉の 中に ちらばって 居る。 奥の 問から 祭壇 を
持って来て 床の 屮央へ 三 壇に すゑ、 神棚から 御 廚子を 下し 塵を淸 めて 一番 高い 處へ 安置し、 御 扉
を あけて 前へ 祌鏡を 立てる。 左右に は ゆ ふ を 掛けた 树臺 ー對。 次 Q 壇へ 御 洗米と 歷とを 純. H な 皿
へ 盛った のが 御燒 物の 鲷を はさんで 正しく 並べられる。 一 番 大きな 下の 壇へ は 色々 な俱 物の 三寶
が 並べられる。 先づ 裏の 畑の 茄子 冬瓜 小豆 人參 里芋 を 始め、 井戸 脇の 葡萄 射の 上の 棗、 隣から 貰
うた 梨。 それから 朝市の 大きな 西瓜、 こいつ は ごろくして 臺へ 載りに くかった の を 漸くの せる
と、 ゅ樣へ 尻 を 向けて ゐ るの は 不都合 ぢ やと 云 ひ 出して 义据ゑ 直す。 こんな 事で とう^ \>晝 飯に
なった。 食事が すんで そこら を 片付ける 內 風呂が わいた から 父上から 順々 にいって からだ を淸め
る。 風呂から 出て 奥の間へ 行く と 一 同の 着替 へが そろへ て ある。 着 なれぬ 緒の 袴の キュ ー くと
なる の を 着て 座敷へ 出た。 日影が 緣へ 半分 程 差し こんで 額が ほてく する の は 風呂に 入った せゐ
であらう。 姉上が 數々 の 子供 を つれて 来る。 一同 座敷の 片側へ 一列に ならんで 順々 拜が 始まる。
自分 も緣 側へ 出て 新しく 水 を 入れた 手水 鉢で 手 洗 ひ 口す" いで 靈 前にぬ かづき、 我 名 を 申 上げて
拍手 を 打つ と 花瓶の 槍 扇の 花びらが 落ちて 葡萄の 上に とまった。 一 番御拜 Q 長かった は 母上で、
祭 一番 祌樣の 御氣に 召した かと 思 はれる はせい ちゃんの であった。 一順す むと 祭壇の 菓子 を 下げて
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子供 等に 頂かせる。 我 も 一度 は 此御頂 を うれしがった 事 を 思 ひ 出して 其 頃の 我な つかしく 端坐 が
し 玉 ふ 父母の 髮の 毛の 白い のが 見える も 心細い 樣な氣 がする。 子供 等 は 何 か 無性に 面. H がって 餅
を fa りながら バタく と 緣側を 追 ひ 廻る、 小さ いのは 父上の 膝で 口 鬚 を ひっぱる。 顏を しかめな
がら 父上 も 笑へば 皆々 笑 ふ。 涼しい 風が 吹いて 來て 榊の ゆ ふが サラ くと 鳴り、 检 扇が 又 散った。
其內に 勝が 出て 來て 一同 其 前にす わる。 「どうです かせいち やん は、 祌樣の 前で 御 膝 を 出して。
ソ レ御 つゆが こぼれ ますよ」 と 云 ふ 一 方で は 年 かさの 娃が 小さい のに ォッ キイ 御 口 を させて 居る。
夕日が 向 ふの 岡に かくれて 床が 薄暗くな つたから 御祌燈 をつ け 御て らし を 上げた。 榊の 影が 大き
く 壁に うつって 茄子 や 葡萄が 美しく か e やいた。 父上 Q いくさの 話しが 出て 子供 等が 急に お,. つな
しくな つたと 思うたら、 小さい のとせ いちやん は 姉上の 膝の 上で はや 寢て しまった。 姉上 等が か
へ ると 御て らしが 消えて 御祌燈 Q. 灯が バ チ くと 鳴る。 座敷が しんとして 庭で は 轡蟲が 鳴き 出し
た。 居間の 時計が ねむ さう に 十 時 をう つたから 一通り 靈前を 片付けて 床に 入った。 」M 敷で 鼠が 物
を かじる 音が する から 見に 行ったら、 床の 眞 中に 鏡が 薄く くらがりの 屮に 淋しく 光って 居た。
(明治 一一 一十 二 年 十 一 月、 ホトト ギス)
ーョー
私が 九つの 秋であった、 父上が 役 を 御 やめに なって 家族 一 同鄕 里の 田 舍へ引 移る 事に なった。
勿論 其 頃 は 未だ 東海道 鐵道は 全通して 居らす、 どうしても 横濱 から 祌戶迄 船に 乘ら ねばならぬ。
が、 困った 事に は 父上の 外 は 揃 ひも 揃うた 船 嫌で 海 を 見る ともう 頭痛が すると 云ふ鹽 梅で。 何も
急く 旅で もな しいつ そ 人力で 五十三次 も 面白から うと、 トウく 其れと 極って から 彼れ 是れ 一 月
の 果を 車の 上、 兩 親の 膝の 上に 交る く 載せられ て 面白 い やら 可笑し いやら の 旅 をした 事が あ る-
惜しい 事に は 歳が 歳であった から 見 もし 聞 もした 場所 も事實 も、 一 一昔 も 程遠き 今日から ふり か へ
つて 考 へて 見る と 夢の 様な 取り止め も 付かぬ 切々 が、 かすかな 記憶 絲 につな がれて、 廻り 燈籠
の樣に 出て 來る ばかりで。 此んな 風で あるから、 之れ も 自分に は覺 えて 居らぬ が撗濱 から 雇った
車 車夫の 中に 饅頭 形の 检笠を 冠った のがあった さう だ。 仕 合せに 晴天が 績 いて 每 日よ く 照りつ ける
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秋の 日の 未だ 中々 暑かった であらう。 斜に來 る 光が 此餞頭 笠 を かぶった 車夫の 影法師 を 乾き 切つ ^8
た 地面の 白い 上へ うつして、 其れが 左右へ ゆれながら 飛んで 行く のが 譯も なく 子供心に 面白 かつ
たと 見える。 自分 は此 車夫に 椎茸と 云 ふ 名 をつ けた。 それ は 影法師の 形が いくらか 似て 居る と 思
つたから である。 街道に 沿うた 松 並木の 影の 中を此 椎茸が 一一 ヨキく と 飛んで 行く のが ドンナに
可笑しかった らう。 朝は此 椎茸が 恐ろしく 長くて、 露に しめった 道 傍の 草の 上 を 大蛇 C 様に うね
つて 行く。 どうかす ると 此 影が 小川へ 飛込んで 見え なくなつ たと 思 ふと、 不意に 向 ふの 岸の 野菊
の 中から 頭 を 出す。 出す かと 思 ふと 一飛に 土 堤 を 飛越え て 又 芒の 上 を チラ リく して 行く。 なほ
面白 いのは 日が 高くなる につれ て 椎茸が 次第に 縮んで、 おしま ひに はもう 椎芽 とも 何とも 分らぬ
ものに なって 石ころ 道の 上 を 飛びく 轉 がって 行く。 少し 厭氣 味になる と 父上に 謠 をうた へ の 話
し をせ よのと ねだって 居る 內に 日が 西に 傾く。 しかし 今度 は 朝の 様な 工合に 行かぬ。 大體が 西 を
向いて 行く ので あるから、 椎茸 は 車の 右 脇へ 頭 を 出したり 左へ 出したり。 どうかす ると. R 分の 脚
の上 へ來るの でキャッ,^と大騷ぎをす^o。 こんな 坊 チヤ マ を 膝へ 乘 せた 父上 も 大概な 事で はな
かったら しいが、 椎萍も トン ダ 目に 畲 つた もの だ。 此 椎茸 少々 宜しから ぬ 事が あって 途中から 免
職に なった の はよ かった が、 其 後任 0 爺さんが .ドー 乇 椎サ坏 でなかった ので 坊 チャン 一通りの 不平
でない。 これに は 流石の 兩親も 持て 餘 したと 云 ふ。 (明治 一一 一士 一一 年 九月、 ホトト ギス)
十日 動物 敎窒の 窓の 下 を 通る と 今 洗ったら しい 色々 の 骸骨が ばらく に^へ 入れて 千して あ
る。 秋 G 蠅がー 一三 羽 止って 稍 寒さう に 羽根 を 動かして 居る。
十一 日 垣に ぶら 下って 居た 南瓜が 何時の間にか 垂れ 落ちて 水引の 花へ 尻 をす ゑて 居る。 我等
が 祖先の 二 ュ I ンは 如何に H ライ 者であった かと 云 ふ 事 を考へ ると 隣の 車井戸の 屋根で ァホ ー
と 鴉が 鳴いた。
十二 日 傘を竪 にさす。 雨 は 横に 降る。
十三 日 豆腐屋が 來た。 聲の 波の 形が 整 はぬ Q で 新米と いふ 事が 分る。 •
十四日 雪隱で プラス、 マイナスと 云 ふ 事を考 へる。
十五 日 今日の やうな しめつ ぼい 空 氣には 墓 Q 匂 ひが 籠って をる 樣に思 ふ。 横にな つて 壁 を 踏
記 日理窮
んで 居る と 眼險が 重くな つて 灰 吹から 大蛇が 出た。
十六 日 涼しい さえく した 朝 だ。 まだ 光の 弱い 太陽 を 見詰めた が 金の 鴉 も 黑點も 見えない。
^堝の 底に 熔けた 白金の 様な 色 をして そして 蟒蜓の 眼の 様に クル,/ \ と 廻る 様に 見える。 眩しく
なって 眼 を 庭の 草へ 移す と 大きな 黄色の 斑點 がいくつ も兑 える。 色が さま/ に變 りながら 吸の
向 ふ 方へ 動いて 行く。 (明治 一 11 十一 一一 年 十月、 * トト ギス)
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別 役の 姉上が 来て 西の 上り 端で 話して 居たら 耍太 郞が臺 所の 方から 自分 を 呼んで 裏へ 嗨を 取り
に 行かぬ かと 云 ふ。 自分 は 未だ 一度 も 行った 事がない が 病後の 事で あるから と 思うて 座敷で 書見
をし て 居る 父上 に 行 つ て もよう 御座いま しょか と 聞く と 行く はよ い が 傘 を さして 行け との 事で あ
つたから、 帽を かぶって わるい 方 G 蝙蝠傘 を 持って 裏門へ 迄 行く と、 耍太郞 はもう 網 を こしら へ
て 待って 居た。 「別 役の 精 様が こな ひだから 連れて行て くれい 云 ひよりました がのう し c」 「さう
かそれ では 呼んで 來ぃ」 とて 下女 を やった。 間もなく 來 たから 速 立って 裏門 を 出た。 バックが 驚
いて 足下から 飛び出した。 「いくら 汚れても よい やうに 衣 物 を着換 へて 来たね。」 精 は 無言で 一一
コ 11 コ して 居る。 足に は 尻の 切れた 草履 を はいて 居る。 小川 を 渡って 三 軒 家の 方へ 出る。 あち こ
ちに 稻を 刈って 居る。 畔に 刈穏を 積み上げて 扱いて 居る 女の 赤い 帶も あちらこちらに 見える。 蜻
きづ 鳴
挺が 足元から ついと 立って 向 ふの 小石 Q 上 へ とまって 目玉 をぐ る/ \- とま はして 又 先 Q 小石 へ 飛
ぶ。 小 溝に 泥鰌が 沈んで 水が 濁った。 新 屋敷 0 裏手へ 廻る。 自分と 精と は 一町ば かり 後 をつ いて
行く。 北 0 山へ 雲の 峯が 出て 新築の 學 校の 屋根が きらくして 居る が 風 は 涼しい。 要 太 郎が手 を
上げた から 余 等 は 立 止って 道に しゃがん だ" 久萬 川の 土手に 沿うた 一 丸 Q 二番 稻 があって 其 中に
嶋が 居る と 見える。 網 IV- 斜に 下向け てし きりに ねらって 居る。 .R 分 等 も 息を殺して 見て ると 忽
ち 頭の 上 で ば さ,/ <\ と 昔が す る。 蜻 挺が 傘に とまって 居た のが 外の とんぼと 噙ひ 合って 小 溝へ 落
ち さう にして ぶいと 別れた。 溝から Q 太陽の 反射で 額が ほてる 樣な。 耍太郞 は 矢 張 ねら ひながら
田 を 廻って 居る。 どうも 鳴 は 居ぬ らしい。 後の方で ダ ー ダ I と 云 ふ 者が あるから ふり かへ ると、
五六 間 後 0 畔道 Q 分れた 處の 石橋 Q 上に 馬が 立って 居る。 其 後に ついて 居る Q は 十五 六の 色の 黑
い 白 手拭 を 冠った 女の子であった。 馬 は どっちへ 行かう かと 云 ふ 風で 立 止って 居る と、 女の子 は
馬 の 腹 をく f つて 前へ ま はって 叉ダ ー ダ I と 云 ひながら 新 屋敷の 方 へ 引いて 行った。 嶋 はやつ ば
り 見えぬ らしい。 耍太郞 も 少し だれ 氣 味で 網 を 高く 上げて 振る と バタ. ('と 一 羽 飛び出して 堤 を
越して 見え なくなった。 耍太郞 の 指 を さす 通りに グサ くと 下駄の 踏 込む 畔を傳 つて 土手へ 上る
と、, 精の 足元から 又 一羽 飛び出して 高く 舞 ひ 上った。 二三 度大 廻り をして 東の 方へ 下りた。 一 何
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處へ 下りました ぞ Q うし。」 「ァ ソコに 木が 二 本 ある ネ ー。 あ Q 西の方に 桑が ある だら う。 あの 下
あたりの 樣 だ。」 耍太 郞は默 つて 堤 を 下りて 行った。 堤に は 一面す.^ き 野 萩 茨が しげって 衣 物に
ひっか \ る。 どう 勘逮 ひした Q か 耍太郞 はとんで もない 方へ 進んで 居る。 聲を 掛けようかと 思つ
たが 鳥 を 驚かして はならぬ と 思うて 控 へて 居る と 果然 嗨は 立った。 要 太郞は 舌打ち をした と 云 ふ
風で あつたが 此方 を 見て 高く 笑うた。 そして 二 木 並んだ 木蔭へ 足を投 出して 坐って 吾等 を 招いた。
「ド, 'ダ ネ。 マ ー 一服 やって 緣起を 直して は。 卷 煙草 を やろ か。」 「ャ ー ありが と ございます II 0
昨日 は赵の 小さい 網で 六 羽 取り ましたが のうし。」 今に 手 並 を 見せる と 云 ふ 風で。
野菊が 獨り 亂れて 居る。 「精 ド— ダ 面白い か c」 「あつい」 と 云 ひつ、 藁帽 をぬ いで 筒袖で 額 を
撫でた。 「サ I そろく 行き ませう 。モット 下へ 行って 見 ましよ c」 小津 神社 Q 裏から 薮 ふち を
通って 下へ 下へ と 行く。 處々 籾 殼を箕 であ ふって 居る。 鷄は 喜んで あっち こち こぼれた 米 を ひろ
つて 居る。 子供が 小 流で 何 か 釣って 居る。 「鲋 か。」 「ゥ ン。」 精の 友達ら しい。 いつの 間に か 要
太郞が 見え なくなつ たと 思うて 居る と 遙か向 ふの 稻 村の 影から 招いて 居る。 汗 を ふき/. \ ついて
行った。 道の 上で 稻を 扱いて 居る。 「御免なさいよ。」 「アイ 御 邪魔で ございます。」 實際 邪魔で
あるので。 耍太郞 を 見る と 向 ふの 刈 田 Q 中 を 如何にも 奇妙な 腰 付で 網 Q 中 を 握って 走って 居る。
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すると 精が 「居る/ \ 要 太郞が あんなに 走り出したら 吃 度 鴨が 居る」 と 云 ふ。 成程 要 太郞は
一 心に 田の 中の 一 點を 凝視め て其點 のま はり を 小股に 走りながら ま はって 居る。 網の 竿 をのば し
たと 思 ふと 急に 足. を 早めて 網 を 投げた。 黑 いものが 立つ と 思 ふと 網に か \ つた。 バタ. (- して 居
る。 耍太郞 も 走る。 精 も 走る。 綺麗な 嶋だ。 ドレく と 精 は 急いで 受取って 足 を 握って 羽 を バタ
バタ さす。 「綺麗な 鳥よ、 綺麗 ヂ ヤノ ー。」 「運し ちゃ 厭で ございま すよ。」 r 二 ガ ス モ ン 力。」 早
く 殺さない と 肉が 落ちる と 云 ふので 耍太郞 が 鳥の 脇腹 をつ まむ と 首が ぐたり となった。 脆い もの
で。 これが 手始めで それから は 取る はく、 少し 0 間に 五 羽、 外に 小 胸黑を 一羽 取った。 近頃 こ
の 位 面白かった 事 はない。 「今晩. 鴨の 御 化が 來る ぜ。」 「来たら 脇腹- VJ つまんで やら あ。」
(明治 三十 四 年 九月)
明後日 は 自分の 誕生日。 久々 で 國にゐ るから 祝の 御 获を食 ひに 歸れ との 察であった。 今日は 天
氣も よし、 二三 日 前の 様に いやな 風 もない。 船 も 丁度 あると 來 たので 歸る 事と 定める。 朝飯の 時
勘定 を こしら へる 樣 にと 竹さん に 云 ひ 付ける。 こんど はいつ 御出で かと 例の 幡多 訛りで 問 ふ。 お
れの事 だからい つ だか わからん と 云った 樣な事 を 云うて ザブ くと すまし、 机 Q 上 を ザット 片付
けて 革飽へ 入れる も Q は 入れ、 これでよ しと ヴ アイ オリ ンを 出して second position の處を 開け
てへ 調の 「アンダンテ」 を やる。 1st とちが つて 何處 かに 艷 があって よい。 拾 を 綿 入に 着かへ
て 重 くるしい のに 裾が 開きたがって 仕方がない。 緣 側へ 日が 强 くさして 何だか 逆上す る。 鼻の ェ
合が 變 だが、 昨日の 寫 生で 風で も 引き やしなかった かしらん。 東の 間で は 御ば あさんの 聲で菊 尾
さん を 呼んで ゐる。 定勝を 尋ねて 來 いとい ひつけて 居る。 着物の 寸法 も 取らねば ならん G に 朝 か
り へが 知 高
ら何處 へいった Q かと ブツく 。 間もなく 菊 尾は歸 つたが、 安田に も學 校に も 居ません と 云 ふの
で、 御ば あさん 又ブッ く。 其內定 勝さん が歸 つた。 着物の 寸法 を 取らねば ならぬ に 何處へ 行つ
て 居た か。 此 忙しい Q にどん なに 世話 を燒 かすか 知れぬ と 頭 ごな し。 歸 つて 来たと て 宅に 片時 居
るで もな し。 おまけに 世話ば かり 燒 かして …… 。 もうさう 時々 歸 つて 來 るに は 及ばぬ …… と カン
カン。 誰れ か餘 所の 伯母さんが 來て寸 を 取って 居る らしい。 勘定 を 持って来た。 十五 圓で 御釣り
が三圓 なにがし。 其 中の 銀 一枚 はこれ で 窬麥を おごらう と 御 竹さん の帶の 間へ。 殘りは 巾着へ、
チヤ ラ くと 云 ふ も 冬の 音な り。 今日は 少し 御 早くと 晝 飯が 来て、 これで 又 しばらくと 云 ふ樣な
事 を 云 ひ 合うて 手早く すます。 しばらく すると 二階で 「汽船が 見えました」 と 御 竹の 聲。 奥から
は 「汽船が 見えました。 今日 御歸 りで 御 ざいます さうな」 と 御 八重が 來る。 これ はちと 話の 順序
がちが つて 居る 樣だ。 料理人 篠村 宇三郎、 かご 入 Q 青海苔 を 持って来て、 「これ は 今年 始めて 取れ
ましたので 差 上げます。 御 尊父 様へ よろしく」 と改 つたる 御挨 接で。 其內 汽船の 碇を 下す 音が 聞
えて 汽笛 一 聲。 「サァ そろく 出掛けよ うか。」 「御 荷物 はこれ 丈け で。.」 r ィ ヤコ レハ 私が 持って
行かう。 サョ ー ナ ラ。」 「又 御早うに …… 。」 定 勝さん も 今日の 船で 歸校 するとて、 背嚢へ 毛布 を
付けて 居る。 今日は 船が 餘程 いつもより は 西へ ついて 居る。 何 處の擧 校 だか 行軍に 來 たらしい。
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生徒が 濱邊に 大勢 居る。 女生の 海老茶 袴が 0 立って 見える。 船に 0 るの だか 見送り だか 二十 前後
の 蝶々 が 大勢 居る。 端艇へ 飛びの つて しゃがんで 唾 をす ると 波の 上で 開く。 濱や兑 ると まぶし
い。 甲板へ 上って ボ ー ィに 上等 は あいて 居る かと 問 ふと あいて 居る との 事、 荷物と 惰を 投げ込ん
で濱を 見る と、 今 端艇に のり 移った マントの 一行 五六 人、 さきの 蝶々 髭の 連中と サョ I ナラ とい
つて 居る のが 聞え る。 蠶種撿 査の御 役人が 歸 るの だな と合點 がいった。 宿の 定 さん も、 二階で 泊
つた 女 づれの ハイカラ も來 る。 頻 Q 恐ろしく 膨れた、 大きな どてら を 着た 人相の よくない 男が 艫
の 甲板 Q 蓆へ 座 をし めて ボ ー ィの賫 りに 來た 菓子 を 食って ゐる。 其 向 ひに 坐った H: の 赤 いぢい さ
んと 相撲の 話 をして 居る。 或は 相撲 取 かも 知れぬ が髮は 二月 前に 刈った と 云 ふ 風で ある。 共 隣に
は 五六 人、 若い 娘 も 二人 程 交って 居る。 機關 至に は顏の 赤い 人の 好 ささうな のが 航海日誌と 云
ひさうな もの へ 何 か 書いて 居る。 こ \ へ 色の 靑ぃ 恐ろしく 瘦 せた 束髮の 三十 位の 女 を つれた 例の
生白い ハイカラが 來 て機關 長と 挨拨 をして 居た が、 女 はとう- (-此 {ま の寢 臺をト :! 領 した。 何者 だ
らう。 黑紋付 を ちらと 見たら 蔦の 紋 であった。 宿の 二階から 毎日 見下して 御な じみの. ま 種撿 茶の
先生 達 は 舳の方 の 炊事場 の 横へ 陣 どって 大將 らしき 鬚 の 白い の が 法帖 樣 0 もの を廣げ て 一 行と 話
して 居る。 やっと 出帆した のが 十二時 半 頃。 甲板 はどう も 風が 寒い。 鱸の 處を 見る と定 さんが 旗
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りへ が 知 高
竿へ もたれて 濱の方 を 見ながら 口笛 を 吹いて 居る から そこ へ いって 話しかける。 第一 一中 舉の 模様
など 聞いて 居る 內 船員が 出帆 旗 を 下しに 來た。 杣 らしき 男が 艫へ 大きな 鋸 や 何 か を 置いた Q で窮
屈 だ。 山々 の 草 枯の色 は實に 美しい と 東の 山ば かり 兑て ゐる內 はや 神 島迄來 て、 久禮 はと 見た け
れ 共何處 とも 見當 がっかぬ。 釣船が 追々 に 沖から 帆 を 上げて 歸 つて 來る。 甲板 を 下駄で 蹴りな が
ら、 昨日 稽古した r ェコ I」 と 云 ふの を 歌 ふ。 室へ 入らう とすると いつの 間に か 商人 體の男 一 一人
其 連れら しき 娘 一人 窒へ 一杯に なって 風俗 畫報か 何 か 見て ゐ るので、 又 甲板 を あちこち。 機關長
窒 から ハイカラ 先生の 鼠色 ツボンが 片足 出て、 鏡に 女の 顏が 映って 見える。 煙突の 脇へ 子供 を
負った 婆さんと おばさん とが 欄干に もたれて 立って、 傅 馬の 船底から 山 を 見て ゐる顏 が 淋し さう
な。 右 被へ 出る と 西日が li 一り つけて、 蝶々 に 結った 料理屋 者ら しいの がー 人 欄へ もたれて 沖 を ぼ
ん やり 見て 居る。 會食 室の 戶が 開いて ゐ るから ちらと 13- たら、 三十 位の 意氣な 女と 酒 をのんで ゐ
る 男が あつたが、 顔 はよ く兒 えなかった。 又 左舷へ 歸 つて 室へ はいって 革 飽から 桂 花 集 を 引つ ば
り. おして 攔へ もたれて 高く 音讀す ると、 艫で 誰れ か 浮かれ 節 を やり 出した ので 皆が 其方 を 見 る。
ボ ー ィに マッチ を 貰って 煙草 を 吸 ふ。 吸殼を 落す と 船腹に 引付いて 落ちて すぐ 見えな くな. る。 浦
戶 の燈臺 が 小さく 見える。 西 を 見る と祌 島が 夕日 を 背に して 眞黑 に^ 上って 見える。 横波 Q 人 日
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を こして 北 を 見 ると 遠い 山の頂に 白い ものが 見える。 ボ— ィが 御茶 を 上げ ましよ と 云うて 來 たか
ら窒へ はいると、 前 Q 商人 は あわて-席 を讓 つて r ド ー ゾコ チラへ」 と 言 ふ。 茶 をのんで 粗末な
ビスケット を 一 一つ 三つ かじる。 娘 は 毛布 を かけて ねたま、 手 を 出して ビス ケッ トを 取って 食って
居る。 スグ又 1: 至 を 出る。 鴨が 澤山 ついて 居て、 釣船もボッ-^-見ぇる。 大分 浦戶に 近よ つた。 煙
突の 下で 立ちながら めし を 食って ゐる 男が ある。 例の ボ ー ィが cabiu から 如何 はしい 寫眞を 出
して 來て 見せびらかしながら 會食窒 へ はいった と 思 ふと、 盛に 笑 ふ聲が 洩れて 来た。 浪 がない か
ら 龍王の 下の 岩に 躍る 白浪の 壯觀も 見えぬ。 釣船 は そろく 帆 を 張って 歸り 支度 をして ゐる。 沖
の礁を 廻る 時から 右舷へ 出て 種 崎の 濱を 見る。 夏と はちがつて 人影 も 見えぬ 和樂 園の 前に 釣を垂
れて 居る 中折帽の 男が ある。 雜喉 場の 前に 日本式の 小さい 帆 前が 一艘つ いて、 汀に は 四 五 人 程 貝
でも 拾って 居る 樣子。 傳 馬に 乘 つて 櫂 を 動かして 居る 女の 腕に 西日が さして A く 見える。 どうや
ら 夏の 様に も 思 はれる。 貴 船 社の 前 を 通った 時 は 胸が 痒かった。 玉 島の あたり ははら かた 釣りが
夥しい が、 女子供が 大半 を 占めて 居る。 種 崎の 渡し Q 方に は、 茶 船の 旗が 二つ 見えて、 池 川の 雨
戶は 空しく 締められて 之れ も 悲しい。 孕の 山に は 紅葉が 見えて 美しい。 碇を 下して^ 端艇へ 移る。
例の ハイカラ は濱行 Q 茶 船への る。 自分 は蠶種 撿査の 先生方の 借り切り 船へ 御 厄介に なった。 須
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崎の 或 人から 稻荷 新地の 醜業婦へ 手紙 を 託された とか 云って、 それ を 出して 見せびらかして 居る。
得月樓の前へ船をっけ^111轉車を引上げる若者がぁる。 樓 上と 門前と に 女が 立って うな づ いて 居る。
犬 引 も 通る。 之れ 等が 煩惱 0 犬 だら う。 松が 端から 車 を 雇 ふ。 下町 は 昨日の 祭 禮の名 续で娠 かな
追手 筋 を 小さい 花臺を かいた 子供 連が ねって 行く。 西洋の 婦人が 向 ふから 來て 之れ とすれ ちがつ
た。 牧牛 會 社の 前 迄く ると 日が 入り か、 つて、 川端の 梗の 霜枯の 色が 實に 美しい。 高 阪橋を 越す
時 東 を 見る と、 女學 生が 大勢 立って ゐ ると 思った が、 其れ は 海老茶 色の 葦 を 干して あるので あつ
た。 (明治 一一 一十 四 年 十一月)
又 一 しきり 强 いのが 西の方から 鳴って 來て、 黑く 枯れた 紅葉 を 机の 前の ガラス 障子に なぐり 付
けて 裏り 藪 >v」 押 倒す 様に して 過ぎ去った。 草 も 木 も 軒 も 障子 も 心から 寒さうな 身慄 をした。 丁度
哀れ を しらぬ 征服者が 蹄 の あとに 淺 して 行く 戰者 の 最後の 息で あるかの 樣な 悲し い 昔 を 立 て,^ 居
る。 之れ を 嘲る 惡 魔の 聲も閒 える 樣な氣 がする。 何處の 深山から 出て 何處の 幽谷に 消え去る とも
知れぬ 此の 破 壤の祌 は、 恰も 其の 主宰者た る 「時」 の 仕事 を もどかし がって 居る かの 様に、 あら
ゆる も Q を 乾枯 させ 粉碎 せんと あせって 居る。
火鉢に は 一 塊の 炭が 燃え 盡 して、 柔ぃ 白い 灰 は 上の 藁灰の 壓カ にたへ かねて 昔 もせす に 落ち込
んで しまった。 此時 再び 家 を 動かして 過ぎ去る 風の 行へ を ガラス 越しに 見送った 時、 何處 とも 知
れす吹 入った 冷い 空氣が 膝頭から 胸に 浸み 通る を覺 えた。 此時我 は 裏道 を 西 向いて ョボ くと 行
取
く 一人の 老翁 を 認めた。 乞食で あらう。 其 人の 多様な 過去の 生活 を 現 はす かの 様な 繼 ぎ はぎの 播
褸は祜 木の 樣な臂 を 包み かねて 居る。 我が家の 裏 迄 來て立 止った。 そして 杖に すがった 儘 辛う じ
て かにんだ 猫背 を延 して 前面に 何物 を か 求む る 樣に顏 を 上げた。 窪んだ 眼に 將に沒 せんとす る 日
が 落ちて、 賴冠 りした 手拭の 破れから 出た 一束の 白髮が 風に 逆立って 見える。 再び ョボ くと 歩
き 出す と、 一 しきり G 風が 驀地に 道の 砂 を 捲いて 老翁 を 包んだ 時 余 は 深き く 空想 を 呼 起した。
而 して 此の 哀れなる 垂死の 人の 生涯 を 夢み た 時、 恰も 此 人の 今の 境遇が 余の 未来 を 現 はして 居て、
余 el 身が 此 翁の 前身で ある 様な 感じが した。.
彼 は必す 希望 を 抱いて 生れ、 希望の 力に よって 生きて 來た であらう。 否 今 もな ほ此 風に 吹き 散
る 雲 の 影 の 様な 何等か の 希望 の 影 を 追う てゐ るで は あるまい か。 そして 此の 果敢ない 影 を 捕 へ ん
として は 幾度 か 墓の 閬に 躓いて 居る ので は あるまい か。 凡そ 何が はかない と 云っても、 浮世の 人
の 胸の 奥底に 潜んだ 儘 長いく 年月 を 重ねて 終に 其 人の 冷い 亡骸と 共に 葬られて しまって、 かつ
て 光に ふれ すに 消えて しま ふ 希望 程 はかない も Q が あらう か G
浮世の 人 は 如何なる 眼で 彼 を 見る であらう か。 各自の 望み を 追 ふに 暇 G ない 世人 は、 たまに 彼
の 萎びた 掌に 一片の 銅貨 を 落す 人 はあって も、 恐らく は それ は 唯 自分 C 心の中の 慈善箱に 投げ 入 5
れ るに 過ぎぬ であらう。 そして 今 特別の 同情 を 以て 見て ゐる 余に さへ も、 此の 何處の 何人と も 知
れぬ 人の 記憶が 長く 止まって 居ようと も 思 はれぬ。
彼 は 多分 戀 した 事 も あらう。 そして 過ぎ去った 青春の 夢 は 今 幾何の 溫 まり を 霜夜 の 石の 床に か
すで あらう か。
彼 は 多分 志 を 立てた 事 も あらう。 そして 今 幾何の 效某を 墓の 下に 责さ うとして ゐ るので あらう „
此 様な 取り止めのない 妄想に 耽って 居る 間に、 老人の 淋しい 影 は何處 ともなく 消え去った。 突
然向 ふの 曲り角から 愉快な 子供の 笑聲が 起って 周 圍の肅 殺 を 破った。 恰も 老翁の 過去の 歡 喜の 聲
が、 こ、 に 一時 反響して 居る かの 如く。 (明治 一 1 一十 四 年 十二月)
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ん やち 雪
擧 校の 晝の 休みに 赤門 前の 友の 下宿の 二階に ねころんで、 風の ない 小春 日の 溫 かさ を 貪る のが
あ Q 頃の 自分に は 一 つの. 日課の 様になって 居た。 從 つて 此 下宿の 帳場に 坐って いつも, く 同じ 樣
に 長い 煙管 を ふす ベて 居る 主婦と もガラ ス 障子 越しの 御 馴染に なって、 友の 居る と 居ない にか i
はらす 自由に 階段 を 上る の を 許されて 居た。
こ、 な 一 一階から 見る と 眞砂町 何とか 館の 廊下 を 膳 を はこぶ 下女が 見える。 下 は 狭い 平庭で 柹
が 一 本。 猫が よく 之れ を傳 うて 隣の 屋根に 上る ので ある。 庭へ は 時々 近邊の 子供が 鬼ごっこ をし
ながら 亂 入して 來ては 飯 焚の 婆さんに 叱られて 居る。 多く 小さい 男の子で あるが、 中に いつも 十
五六の、 赤ん坊 を 背負った 女の子が 交って 居る。 そして 其 大きい 目から 何から よく 死んだ 針に 似
て 居る ので、 あれ は何處 0 娘 かと 友に 尋ねて 見た 事が ある。 友の 知って 居る 丈で は 彼 は 隣の 小さ
い 下宿の 娘で、 父なる 者 は 今年 七十 近い 爺さんで 母 はやつ と 三十 位 だとの 事であった。 名 は 雪ち
やん と 云った。
其 後 自分 は 小石 川へ 家 を 持つ 事に なって、 しばらく Q 問 友 0 下宿へ も 疎くな つて ゐ たが、 悲し
い 事情の 爲に再 び 家 をた . -んで 下宿 住 ひ をし なければ ならぬ 事に なつ た 時、 丁度 友 の 隣の 下宿の
1 一階が あいて 居る との 事で 計らす 此雪 ちゃんの 宅に 机を据 ゑる 事に なった。
こ、 に 世話になつ たのが 彼是 半年。 敢て 短い 日子ではなかった が、 かう 云 ふ 事に は 極めて 球い
自分に は此 家の 家庭 Q 過去 現在に ついて 知り 得られた 事 は 至って 僅で、 叉强 ひて 知り 度い と 思 ひ
もしなかった。 が、 主婦が 新 潟の 人で ある 事、 主人 はもと は 士族で 先妻に 子 迄あった 事、 そして
先妻が なくなった あと 其れ 迄 下女で あった 今の 主婦 を 入れた 事な ど は 友 や 主婦 自身 の 口から 知つ
た 僅な 事實の 主なる 部分であった。 しかし 雪 ちゃんが 主婦の 實子か 否と 云 ふ 事 は 聞き 洩 した。 尤
も 主婦が 此 娘に 對 すると 先達て 生れた 妹の 利 ちゃんに 對 すると 其 間に 何のち が ひも 自分に は 認め
られ なかった と は 云へ。
主婦 は 親切で あつたが、 色の 蒼白い、 眉の 間に は 始終 憂 管な 影が ちらついて、 そして 時々 工合
が惡 いと 云って は 梯子 〇 上り下り Q 苦し さうな 事が あり、 又 力無い 咳 をす る處 など を 見る と 或は
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ん やち 雪
と 思 ふ 事が あって 友に 計った が、 此 家に 數年 前から 泊って 居て、 殆んど 家 內同樣 になって 居る 醫
科の 男が あって 其れが 一向 引越し もしない 處 から 見る とまさ かさう では あるまい と 云 ふので、 格
別氣 にも 止めなかった ので ある。 雪ち やん も此 色の 蒼白い そして 脊の すらりと した 處は 主婦に 似
て 居て、 朝 手水の 水 を 汲む とて 井戶繩 にす がる 細い 腕 を 見る と 何だかい たくしく も 思 はれ、 又
散歩に 出掛ける 途中、 御 使 か ら歸 つて 來 るの に 會ふ時 御辭儀 をし て 自分 を 見て 微笑す る 額 の 淋し
さな どを考 へ、 此兒に は何處 にか 病氣 でも 潜んで ゐる ではない かと 云ふ氣 がして 居た。 亡 妹に 似
てゐると云ふのがハ^^"此感じを深くしたのでぁらぅ。それに も 拘ら. f 雪ち やん は壯 健で 至って 元
氣の よい 子であった。 利 ちゃんが 何 かい たづら でもした 時に 叱りつ ける 聲 はどうして 此細 いかよ
わい 咽から 出る のかと 思ふ樣 で、 何 か 御 使で も 云 ひつけら る,^ と 飛鳥の 樣に 飛んで 出て 疾風の 如
く歸 つて 來る。 かう 云 ふ 性質の 爲 であるか、 雪 ちゃんの 友達 は 多く 自分より 年下 Q 男の子で あつ
た。 隣家に 同年輩の 娘 子供 は隨 分ないでも なかった のに 之れ 等と は 鬼に 角 遊ばなかった。 何故 だ
らうと 考へ て 見た 事 もあった。 隣 は 多く 小官 吏であった ので ある。
或 日の 事、 晝の 休みに 歸 つて 來て 二階へ 上らう とした 時、 階段に 凭れて うつ ふしに なって 居た-
「ド, !ン タノ。」 聞いた が 返事がなかった から 其儘驅 上る と 主婦が 晝釵を 持って 上って 來た。 雪
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ちゃん もつ いて 來て 入り口の 柱へ もたれ て 浮かぬ顔で ボ ンャリ して 居る。 眼 0 ふちが 少し 赤い。
丁度 机の 上に 昨夕 買って 來 た新聲 の 卯 花 衣 があった から T 雪 チャン 。之れ を 御覽。 綺麗な 畫 が あ
るよ,」 と 云うたら 返事はなくて 悲しげに 微笑した。 「ド 1 'モ まだ 孩兒で …… 」 と 主婦が 云った。
此 悲しげ な 微笑 は 未だに 忘れる 事が 出来ない。
义或 日の 事であった。 隣室の 醫 科の 男が 雪 ちゃんに 命じて 杏 を 買 づて來 さして 二人で 食って 居
た。 C 分 は 勿 一, § を やりながら 聞く ともなし に 二人の 對話を 聞いて 居たら、 雪 ちゃんの 聲で 「…
…角の 店の を 食った の。 そり や ホン ト 二お いしいの よ。 ォソ ラク」 と 云った。 此ォソ ラタが 甲走
つた 聲 であった ので、 自分 はふと 耳 を 立てる と、 男 0 聲で 「ォソ ラタって そり や 何の 事 だ。 誰に
習った のか」 と 輕く笑 ひながら 問 ふ。 あと はくす ぐられ る 樣な雪 ちゃんの 笑聲 がしば らく 二階 中
に 響き渡った。
自分が 暑中休暇で 歸省 する 四 五日 前、 夕飯 を 持って来た 主婦が 「わたし これから 出ます が 何 か
御 使 はあり ませぬ か」 との 前置 をお いての 問 はす 語りに、 其 日 雪ち やん はどう かして 主婦に 叱ら
れ、 其 傣家を 出て すべ て歸 つて 来ぬ 故 これから 心當 りへ 尋ねに 行かねば ならぬ との 事であった。
其 夕 方 親類 の をば さんに つれられて 歸 つて 来たとば かり、 其 上の 事情 は 更に 知る 事が 出來 なかつ
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行李 を 車 へ 積んで 主人に 暇 を つげ 車へ 上って 上 を 見る と、 二階に 雪 ちゃんが 立って 居て ボン ャ
リさを 眺めて 居た。 國へ歸 つて 後 病 を 得て 一年 休舉 する 事に なり、 友に 託して 荷物 は 親類へ 預け
てし まひ、 しばらくしての 友の 手紙に 雪 ちゃんの 家 は 他へ 讓り 渡し、 主人 は寺番 に、 雪ち やん は
或 醫學士 の 家へ 小間使に 上った が、 主婦に 關 して は 凡て 消息 を 知る 事が 出來 ぬとの 事であった。
翳 科の 男 は相變 らす此 家の 二階の 同じ 室に 居る と 見えて、 音 讀の聲 が 友の 下宿の 二階に 閒 えて 居
る さう である。 ,
雪 ちゃんと 其 家庭に 就いて 誌すべき 事 は 之れ 丈で ある。 此 寧ろ 長々 しい、 つまらぬ 叙事 を讀ん
で 幾分 かの 興味 を感す る 人が あれば、 それ は 恐らく 隣の 下宿に 居た 友 位な もので あらう。
(明治 一二 十四 年)
もう 何年 前になる か 思 ひ 出せぬ が 日は覺 えて 居る。 暮も おし 詰った 廿 六日の 晚、 妻 は 下女 を 速
れて下 谷 摩利支天の 緣 日へ 出掛けた。 十 時 過に 歸 つて 來て、 袂 からお みやげの 金 鍔と 燒栗を 出し
て 余の ノ ー ト を讀ん で 居る 机の 隅へ そっとの せて、 便所へ は ひ つたが やがて 出て 來て 蒼い 顏 をし
て 机の 側へ 坐る と 同時に 急に 咳 をして 血 を 吐いた。 驚いた のは當 人ば かりで はない、 其 時 余の 顏
に 全く 血の 氣が 無くなった 0 を 見て、 一 層氣を 落した と 此れ は あとで 話した。
翌る日 下女が 藥取 りから 歸 ると 急に 暇 を くれと 云 ひ 出した。 此邊は 物騒で、 御 使に 出る と 吃 度
いやな 惡戲 をされ ますので、 どうも 恐ろしくて 不氣 味で 勤まり ませぬ と 妙な 事 を 云 ふ。 しかし 見
る 通りの 病人 をか& へ て 今 急に お ま へ に 歸られ て は 途方に くれる。 せめて 代りの 人の ある 迄 辛抱
して くれと、 よしや まだ 一介の 書生に しろ、 鬼に 角 一家の主 人が 泣かぬ ばかりに 頼んだ ので、 其
栗闥
日 はどう やら 思 ひ 止ったら しかった が、 翌日 は國 許の 親が 大病と か 云ふ譯 でとう く歸 つてし ま
ふ。 掛 取に 來た 車屋の 婆さんに 賴ん で、 何でもよ いからと 桂庵から 連れて来て もらった のが 美 代
と 云 ふ 女であった。 仕 合せと 此れが 氣立 Q やさしい 正直 もので、 尤も 少し ぼんやりして 居て、 狸
は 人に 化ける も Q だとい ふやうな 事 を 信じて 居た が、 兎に角 忠實に 病人の 看護 もし、 叱られても
腹 も 立てす、 そして 時に しくじり もやった。 手水 鉢 を 成 敷の 眞 中で 取 落して 洪水 を 起したり、 火
燧の お下り を 入れて 寢 て蒲團 から 疊 まで 徑 一 尺 程の 燒 穴き こしら へた 事 もあった。 それに も か X
はらす 余 は 今に 到る 迄此美 代に 對 する 感謝の念 は 薄らがぬ。
病人 Q 容體は 善い とも 惡 いと もっかぬ うちに 歳 は容捨 なく 暮れて しま ふ。 新年 を迎へ る 用意 も
しなければ ならぬ が、 何 を 買って どうす る もの やら わからぬ。 それでも 美 代が 病人の 指圖を 聞い
て 其れに 自分の 意見 を 交ぜて 一 日 忙し さう に 働いて 居た。 大晦日の 夜の 十二時 過、 障子の あんま
りひ どく 破れて 居る のに 氣が 付いて、 外套の 頭巾 を ひっかぶり、 皿 一枚 を さげて 森 出 町へ 五 厘の
糊 を 買 ひに 行ったり した。 美 代 は此夜 三時 過 迄 結び ItSI を こしら へて 居た。
世間 は 目出度い お 正月に なって、 暖ぃ天 氣が鑌 く。 病人 も 少し づ\ よくなる。 風の 無い 日は緣
側の 日向へ 出て 來て、 紙の 折 鶴 をい くつと なく こしら へて 見たり、 祕藏の 人形の 着物 を 縫うて や 2^
つたり、 曇った 寒い 日 は 床の 中で r 黑髮」 を彈く 位に なった。 そして 時々 心細い 愚痴つ ぼい 事 を
云って は 余と 美 代 を 困らせる。 妻 は 其 頃もう 身重に なって 居た ので、 この 五月に は 初 產と云 ふ 女
の 大難 を ひかへ て 居る。 おまけに 十九の 大厄 だと 云 ふ。 美 代が 宿 入りの 夜な ど、 木枯の 音に まじ
る 隣, M の 淋しい 寢息を 聞きながら 机の 前に 坐って、 ラム プを 見つめた ま、、 長い 息をする こと も
あった。 妻は醫 者の 間に合 ひの 氣 休め をす つかり 信じて、 全く 一時的な 氣 管の 出血で あつたと 思
つて :I5 たらしい。 さぅでなぃと信じたくなかった^:でぁらぅ。 それでも 何處 にか 不安な 念が 潜ん
で 居る と兒 えて、 時々 一 ほんとうの 肺病 だって、 なほらない と 極った 事 はない C でせ うね」 とこ
んな事 をき いた 事 も ある。 又 或 時 は 「あなた、 かくして 居る でせ う、 吃 度 さう だ、 あなた さう で
せう」 とうる さく 聞きながら、 余の 顏 色を讀 まう とする、 其 祈る やうな 氣遣 はしげ な服づ かひ を
見る Q が 苦しい から 「馬鹿な、 そんな 事 はない と 云ったら ない」 と 邪慳な 返事で 打消して やる。
それでも 一 時は滿 足す る 事が 出來 たやう であった。
病 氣は少 しづ よい。 二月 C 初に は 風呂に も 入る、 髮も結 ふやう になった。 車屋の 婆さんな ど
は 「もう スッ カリ 御 全快 ださう で」 と、 獨 りで きめてし まって、 そっと 懐から 勘定書 を して
「どうも 大變 に、 お 早く 御 全快で」 と 云 ふ。 醫 者の 所へ 行って 閒 くと、 善い とも 惡ぃ とも 云 はす-
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栗圃
「なにしろ 丁度 御姙娠 中です からね、 此 五月が 餘程 御大 事です よ」 と 心細い 事 を 云 ふ。
それに も拘ら す少 しづ、 よい。 月の 十 何日、 風の ない 暖ぃ 日、 醫 者の 許可 を 得た から 植物園へ
連れて行って やる と 云 ふと 大變に 喜んだ。 出掛ける となって 庭へ 下りる と、 髮が あんまり ひどい
から 一寸 撫で付ける 迄 待って 頂戴と 云 ふ。 懐手 をして 緣へ 腰掛けて 淋しい 小 庭 を 見廻 はす。 去年
の枯 菊が 引かれた 儘で、 あはれ に 朽ちて 居る、 それに 千代紙の 切れ か 何 か 引掛 つて 風の ない の
に、 寒さう に顫 へて 居る。 手水 鉢の 向 ひ G 梅 Q 枝に 二輪ば かり 滿 開した のが ある。 近付いて よく
見る と 作り 花が くっつけ てあつた。 大方 病人の い たづら らしい。 茶の間の 障子の ガラス 越しに 覼
いて 見る と、 妻 は 鏡臺の 前へ 坐って 解かした 髮を 握って ばらり と 下げ、 櫛 をつ かって 居る。 一寸
撫でつ ける のかと 思ったら 自分で 新たに 卷き 直す と 見える。 よせば よいのに、 早くし ないかと々 t.^
き 立て、 おいて、 座敷 c: 方へ 戾 つて、 横にな つて 今朝 見た 新聞 をの ぞく。 早くし ないかと 大聲で
促す。 そんなに 急き立て ると、 なほ 出來 やしない わと 云 ふ。 默 つて 臺 所の 横 を ま はって 門へ 出て
見た。 往來 Q 人が じろ く 見て 通る から 仕方なし に 歩き 出す。 半 町ば かりぶ らく 歩いて 振り返
つ て も 未だ 出て 來ぬ から、 叉 引返して もと 來た 通り 臺 所の 横から 緣側 へ ま はって 覼 いて 見る と、
妻が 年甲斐 もな く 泣き伏して 居る の を 美 代が なだめて 居る。 あんまり だと 云 ふ。 一人で 何處 へで 2
もい らっしゃ いと 云 ふ。 まあ 鬼 も 角 もと 美 代が すかしな だめて、 やっと 出掛ける 事になる。 實に
好い 天氣 だ。 「人 心が 蒸發 して 霞に なり さうな 日 だね」 と 云ったら、 一間ば かり 後 を 雪駄 を
引きす りながら、 大儀 さう について 來た妻 は、 ヱ、 と氣の 無い 返事 をして 無理に 笑 額 を こしら へ
る。 此時 始めて 氣が 付いた が、 成程 腹の 帶の 所が 人並より 大分 大きい。 あるき 方が 餘程變 だ。 そ
れ でも 當人 は平氣 でく つついて 來る。 美 代と 二人で よこせば よかった と 思 ひながら、 無 首で 歩調
を 早める。 植物園の 門 を は ひって 眞 直ぐに 廣 いたらく 坂 を 上って 左に折れる。 かな 日光が 廣
い 園に 一杯に なって、 花も綠 もない 地盤 はさながら 眠った やうで ある。 溫 {jPi の 白 塗りが キラ- -
する やうで 其 前に 二三 人懷手 をして 窓から 中 を視く 人影が 見える ばかり、 噴水 も 出て 居ぬ。 睡蓮
もま だつ めたい 泥 c: 底に 眞 夏の 雲の 影 を 持って 居る。 溫窒の 中から ガク /\ と 下駄の 音を立て、 *
田舍の 婆さん 達が 四 五 人、 狐に つま、 れた 樣な顏 をして 出て 来る。 余 等 は 之と 入れち がって は ひ
る。 活力 Q 充 ちた、 しめつ ぼい 埶ー帶 の { 仝氣が 鼻の 孔 から 腦を襲 ふ。 椰子の 樹ゃ琉 球の 芭蕉な どが •
今少し 延びたら、 此 屋根 を どうす る 積り だら うとい つも 思 ふので あるが、 今日 もさう 思 ふ。 瓜哇
と 云 ふ 國には 肺病が 呰無 だと 誰れ かの 云った 事 を 思 ひ 出す。 妻 は 濃綠に 朱の 斑點の 入った 草の葉
を いぢって 居る から 「オイ 止せ、 毒 かも 知れない」 と 云ったら、 慌て、 放して、 いやな 顏 をして
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栗圑
指先 を 見つめて 一寸 噪 いで 見る。 左右の 廻廊に は處々 赤い 花が 唤 いて、 其 中から のんき さうな 人
の顏も あちこちに 見える。 妻 はなんだ か氣 分が 惡 くな つたと 云 ふ。 顔色 は 大して 惡 くもない。 急
に 生 溫ぃ處 へ は ひった 爲 めだら う。 早く 外へ 出た 方が よい、 おれ はも 少し 見て 行く からと 云った
ら、 一寸 ためらつ たが、 おとなしく 出て 行った。 紅い 花 だけ 見て すぐ 出る 積り で 居たら、 人と 人
との 間へ はさまって、 ちょっと 出損なって、 やっと 出て 見る と 妻 は 其 處には 居ぬ。 何處へ 行った
かと 見迥 はすと、 遙か向 ふの 東屋の ベンチへ 力無 ささう に 凭れた ま、、 こっち を 見て 笑って居た。
園 Q 靜け さは 前に 變ら ぬ。 日光の 目に 見えぬ 力で 地上の 凡て Q 活動 を そっと 抑へ 付けて ある 樣
に 見える。 氣分 はすつ かりょくな つたと 云 ふから、 もう そろ 歸ら うかと 云 ふと、 少し 驚いた
やうに 余の 顏を 見つめて 居た が、 折角 来たから、 もう 少し、 池の 方へ でも 行って みませう と 云 ふ。
それ もさう だと 其方 へ 向く。
崖 を 下り か 、ると 下から 大學 生が 一 一三 人、 黄色い 聲でァ リスト ー トルが どうした とか 云 ふやう
な 事 を 議論しながら 上って 来る。 池の 小島の 東屋に、 三十 位の 眼鏡 を かけた 品の 好い.! 君が、 海
軍服の 男の 兒と 小さい 女の 兒を 遊ばせて 居る。 海軍 服 は 小石 を 拾って は 氷 0 上 を すべらせて 快い
音を立て、 居る。 ベンチの 上に は 皺くちゃの 半紙が 擴 げられ て、 其 上に カステラの 大きな 片 がの 6
つて 居る。 「あんな 女の 兒が 欲し いわねえ」 と 妻が いつにない 事 を 云 ふ。
出口の 方へ と 崖の 下 を あるく。 何の 見る もの もない。 後で 妻が 「おや、 圑 栗が」 と 不意に 大き
な聲 をして、 道 脇の 落葉の 中へ は ひって 行く。 なる 程、 落葉に 交って 無 數の團 栗が、 凍てた 崖 下
Q 土に ころがって 居る。 妻 は 其處へ しゃがんで 熱心に 拾 ひ はじめる。 見る 間に 左の 掌に 一杯に な
る。 余 も 一 つ 二つ 拾って 向 ふの 便所の 屋根へ 投げる と、 カラく と轉 がって 向 側へ 落ちる。 妻 は
帶の 間から ハ ンケチ を 取 出して 膝の 上へ 擴げ、 熱心に 拾 ひ 集める。 「もう 大概に しない か、 馬鹿
だな」 と 云って 見た が、 中々 止めさう もない から 便所へ 入る。 出て 見る とま だ 拾って 居る。 「一
體 そんなに 拾って、 どうしょうと 云 ふの だ.」 と 聞く と、 面白さう に 笑 ひながら、 「だって 拾 ふの が
面白 いぢゃありません か」 と 云 ふ。 ハ ンケチ に 一杯 拾って 包んで 大事 さう に 縛って 居る から、 も
う 止す かと 思 ふと、 今度 は 「あなたの ハ ンケチ も 貸して 頂戴」 と 云 ふ。 とう-^ 余の ハ ンケチ に
も 何 合 かの 圑栗 を充 たして 「もう 止して よ、 歸り ませう」 と 何處迄 もい \氣 な 事 をい ふ。
圑栗を 拾って 喜んだ 妻 も 今 はない。 御 墓 Q 土に は 苔の 花が 何遍 か 咬いた。 山に は 團栗も 落ちれ
ば、 膽〇啼 く 音に 落葉が 降る。 今年の 二月、 あけて 六つになる 忘れ 形 身の みつ 坊を つれて、 此植
物 園へ 遊びに 來て、 昔ながら の 圑栗を 拾 はせ た。 こんな 些細な 事に 迄、 遣 傳と云 ふやうな ものが
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ある もの だか、 みつ 坊は 非常に 面白がった。 五つ 六つ 拾 ふ 毎に、 息む はす ませて 余の 側へ 飛んで
來て、 余 Q 帽チ Q 屮へ ひろげた ハ ンケチ へ 投げ込む。 段々 得物の 增 して 行く の を のぞき 込んで、
頗を 赤く して 嬉し さうな 溶けさうな 顏を する。 爭 はれぬ 母の 面影が 此無 邪氣な 顔の 何處 かの 隅 か
ら チラ リと Q ぞいて、 うすれ か \ つた 昔の 記憶 を 呼び返す。 「おとうさん、 大きな 團栗、 こい も
こ いもく くく みんな 大きな 團栗」 と 小さい 泥 だらけの 指先で 帽子の 中に 累々 とした 圑 栗の
頭 を 一つ 一 つ 突つつ く。 「大きい 圑栗、 ちいち やい 團栗、 みいん な 利口な 圑栗 ちゃん」 と 出たら
めの 唱歌の やうな もの を 歌って 飛びく しながら 义拾ひ 始める。 余 は 其 罪のない 横 額 を じっと見
入って、 亡妻 Q あらゆる 短所と 長所、 團栗 0 すきな 事 も 折鹤の 上手な 事 も、 なんにも 遣傳 して 差
支へ はない が、 始めと 終りの 悲慘 であった 母の 蓮 命 だけ は、 此兒に 繰 返させ 度くない もの だと、
しみん \ さう 田 3 つた Q である。 (: 明治 三十 八 年 四月、 ホトト ギス)
一日 じめ くと、 人の 心 を 腐らせた 霧雨 もやんだ やうで、 靜 かな- 脊 闇の 重く? i つたお .1 に、 何處
かの 汽笛が 長い 波線 を 引く。 さっき 迄 「靑葉 茂れる 撄 井の」 と 繰返して 居た 隣の オルガンが 止む
と、 間もなく 門の 鈴が 鳴って 軒の 葉 櫻の 0卞 が 風 Q ない のにば らくと 落ちる。 「初 雷 樣だ、 あす
は お 天氣だ よ」 と 勝手 の 方で 婆 さ んが獨 り 言 を 云 ふ。 地の 底ぉ.^ 〇 5^ から 間え て 來る 様な 重 々しい
響が 腹に こたへ て、 晝間 讀んだ 悲惨な 小 說ゃ、 隣の r 靑紫 しげれる 櫻 井 Q」 やらが、 今: に 胸 を
かき 亂す。 こんな 時には 何時もす る やうに、 机の 上に 肱 を 突いて、 頭 をお さへ て、 何もない 壁 を
見詰めて、 あった 昔- ない 先き の 夢幻の 影 を 追 ふ。 何だか. 思 ひ 出さう としても、 思 ひ 出せぬ 事が
あって うっとりして 居る と、 雷の 音が 今度 は 稍 近く 聞え て、 ふっと 思 ひ 出す と共に、 あり/ \- 目
の 前に 浮んだ の は、 雨に 濡れた 龍舌蘭の 鉢で ある。
蘭 舌 龍
野の 義 さんが 生れた 歳 だから、 もう 彼是 十四 五 年の 昔になる。 自分 もま だ やっと 十 か 十三 位
であった らう。 來る 幾日 義 雄の 初節句の 祝 をし ますから 告 さん 御 出 下さる やうに と チヨ ン鬅の 兼
作 爺が 案 2: に來て 、其 時に 貰った 紅白の 餅が 大きかった 事も覺 えて 居る。 いよく 其 日4 一な つて、
母上と 自分と 二人で、 車で 出掛けた。 折 柄の 雨で 車の 中 は 窮屈であった。 自分 Q 住って 居る 町 か
ら 一里 半餘、 石ころの m 舍道を ゆられながら やっと 姉さんの おへ 着いた。 門 小 流 Q 菖蒲 も闹に
しほれ て 居る。 もう 大勢 客が 來て 居て 母上 は 一人々々 に懇に 一別 以來 の辭儀 をせられ る。 E 分 は
其 後に 小さくな つて 手 持 無沙汰で 居る と.、 折よ くこ、 の 俊 ちゃんが 出て 來て、 待ち兼ねて 居た と
云 ふ 風で 自分 を 引 張って 御池の 鯉 を 見に 行った。 姉さん 處には 池が あって 好い と 子供心に 羨し く
思うて 居た。 池 は 一寸した 中庭に 一杯に なって 居て、 門の 小川 C 水が 表から 床下 をく 1- つて 此池
へ 通 ひ 裏 田圃へ ぬける 様に して ある。 大きな 鲤、 緋鯉が 澤山 飼って あって、 此 頃の 五月雨に 增し
た 濁り水に、 おとなしく: 冰 いで 居る と S ャんと 折 々凄まじい 音を立て \ はね 上る。 池の 圍りは 岩 組
になって、 瘦 せた 卷柏、 稷橺竹 杯が 少し あるば かり、 そして 隅の 扁 たい 岩の 上に 大きな 龍舌蘭の
鉢が 乘 つて 居る。 姉さんが 此 家へ 舆 入に なクた 時、 始めて この 鉢 を 見て 珍しい 草 だと 思った が、
今でも 故 鄕の姉 を 思 ふ 度に は 吃度此 池の 龍舌蘭 を 思 ひ 出す。 今 思 ひ 出した のは此 鉢であった。 W
池を距 て、 池の 問と 名 G 付いた 此小 座敷の 向 ひ 側 は、 豪 所に 鑌く 物置の 板 都の, 其 上が 一寸し
やれた 屮ー 一階に なって 居る。
あ Q 頃 Q 田舍の 初節句の 祝宴 は 大抵 二日 績ぃ たもので、 親類 緣者は 勿論、 平素は 餘 り往來 せぬ
遠緣 のい とこ、 はと こ 迄、 屮には隨分遠くからはる,^泊りがけで出て來る。 それから 近 村の 小
作 人、 出入の 職人まで 寄り 集って 盛んな 祝であった。 近親の 婦人が 總 出で 杯盤の 世話 をし、 酌 を
する。 ; \j の 上、 町から 藝 者を迎 へて 與を 添へ させる Q が 例な 0 で、 此時も 二人 来て 居た。 これ も
祝の ある 內は 泊って 居る ので、 池の 向 ふの 中 一 一階 は此藝 者の 化駐 部屋に も 休憩所に も义寢 室に も
なって 居た。
夕方 近くから 夜中 過ぎる 迄、 家中 唯 誤の ま はる 程 忙しい 騒がしい。 臺 所でせ 皿 鉢の ふれ 合 ふ 音、
庖丁 Q 音、 料理人 や 下女 等の 無作法な 話聲 などで 一通り 騒がしい 上に、 猫、 犬、 それから 雨に 降
り 込められて 土 11 へ 集って 居る 鶴 迄が 一層の 賑 かさ を 添へ る。 奥の間、 表座敷、 玄關 とも 云 はす、
一 杯 Q 人で、 それが 一人々々 に 御辭儀 をして は六ケ しい 挨桜を 交換して 居る。
其 混 雜の問 をく にり、 |! 辭 儀の 頭の 上 を 踏み 越さぬ ばかりに 杯盤 酒 着 を 座敷へ はこぶ 往來も 見
るから に 忙しい。 子供 等 は 仲間が 大勢 出来た 嬉し さで 威勢よ く驅け 廻る。 一 體 自分 は 共 から 陰
6B
蘭 舌 龍
氣な 性で、 こんな 騷 ぎが 面白くな いから、 いつもの 樣に 宵の 內ぃ& 加減 御馳走 を 食って しま ふと
奥の 藏の 問へ 行って 戸棚から 八 犬傳、 三國 誌な ど を 引つ ばり 出し、 おなじみの 信 乃 や 道 節、 孔明
ゃ關 羽に 親しむ。 此室は 女の 衣裳 を着更 へる 處 になって 居た ので、 四面に すらりと 衣桁 を 並べ、
衣紋 竹 を 掛け つらねて、 派手な やら、 地味な やら いろんな 着物が、 蟲 干の 時の 様に 並んで 居る。
白粉 臭い、 汗く さい 變な 香が 籠った 中で、 自分 は 信 乃が 濱路の 幽靈と 語る くだり を讀ん だ。 夜 0
更ける につれ て、 座敷の 方 は 段々 賑 かになる。 調子 を 合す 三味線の 音が すると、 淸ら かな女の 聲
で 唄 ふ Q が 手に 取る 樣に 聞え る。 調子 は づれの 鄙歌が 一度に 起って 皿 をた \ く 昔 もす る。 一し き
り哏が 止んだ と 思 ふと、 不意に 鞭 聲肅々 と 誰れ やらが いやな 聲で わめく。
. 信 乃が 腕 を 拱いて うつむいて 居る 前に 片手 を疊 にっき、 片袖 をく はへ て 居る 濱路の 後に、 影の
様に 現 はれた 幽靈 の鎗を 見て 居た 時、 自分の 後の 唐紙が する くと 開いて、 は ひって 来た 人が あ
る。 見る と 年增の 方の 藝 者であった。 自分に はかま は. f 片隅の 衣桁に 懸 つて 居る 着物の 袂を さぐ
つて 何 か帶の 間へ はさんで 居た が、 不意に 自分の 方 を ふり 向いて 「あちらへ いらっしゃいね、 坊
ちゃん」 と 云った。 そして 自分の 傍へ 膝の ふれる 程に 坐って r ォ、 いや だ、 御化け 一 と繪を のぞ
く。 髮の 油が 句 ふ。 二人で だまって 無心に 此綺を 見て 居たら 誰れ か ー淸 香さん J と あっちの 方
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で 呼ぶ" 藝者 はだ まって 立って 部屋 を 出て 行った。
俊 ちゃんと 一 一人で 奥の間で 寢て しまった 頃 も、 座敷の 方 はま だ, W のさまで あった。
翌る日 も 朝から 雨であった。 昨夜の 騷 ぎに ひき かへ て靜か 過ぎる 程靜 かであった。 男 は 表 Q 座
敷、 女 同志 は 奥 Q 一間へ 集って、 しめ やかに 話して 居る。 母上 は 姉さんと 押入から 子供の 着物な
ど W きちら して 何 か 相談して 居る。 新聞 を擴 げた 上に 居眠り を 始めて 居る 人 も ある。 酒の.:? の
つた 重 くるしい 鬱陶しい 空氣が 家の 中に 充 ちて、 誰れ も 彼れ も、 とんと 氣拔 のした 様な 風で ある。
臺 所では 折々 トン、 コ トンと 魚の 骨で も 打つ らしい 單 調な 響が 靜 かな ,冢 中に ひ いて、 それが 乂
一種の 眠氣を さそ ふ。 中二階 G 方で、 つま 引の 三鉉の 音が して 「夜の 雨 もしゃ 來 るかと」 とつ や
の ある 低い 聾で 唄 ふ。 それ もぢき 止んで 五月雨の 軒の 玉 水が 亞紛 のと ゆに 咽んで 居る。 骨 を 打つ
音 は 思 ひ 出した 様に 臺 所に ひ く。
晝 から 俊 ちゃんな ど、、 ぢき 隣の 新宅へ 遊びに 行った。 內の 人は昝 姉さんの 方へ 手傳に 行って
居る ので、 唯 中氣で 手足の 利かぬ 祖父さん と 雇 婆さんが 居る ばかり、 いつも は賑 かな 家 も ひつ そ
りして、 〕i ^の 間の 金 太郞ゃ 鍾馗も 淋しげ に 見えた。 十六む さし、 將棊の 駒の 常 てつこな どして::: 几
たが 氣 が乘ら ぬ。 緣 側に 出て 見る と 小 庭 を圍ふ 使い 土雜を 越して 一面の 靑 W が える。 雨 は 煙の
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蘭 舌 龍
様で、 遠く もない 八: t の 森 や 衣笠 山 も ぼんやり にじんだ :4- ま g の 中に、 薄く 萌黄を ぼかした 稻 田に
は、 草 取る 人の 簑 笠が 黄色い 點を 打って 居る。 ゆるい 調子 Q、 眠 さうな 草 取 歌が 聞え る。 歌の 詞
は 問き 取れぬ が、 ?準 調な 悲しげ な 節で 消え入る やうに 長く 引いて、 一 ふしが 終る と、 しばらく 默
つて 又 ゆるやかに 歌 ひ 出す、 此れ を閒 いて 居る と 何だか 胸 をお さ へ られる やうで 急に 姉さんの 宅
へ歸 りたくな つたから 一人で 歸 つた。 歸 つて 見る ともう そろく 客が 來 始めて、 例の うるさい 御
辭 儀が 始 つて 居る。 さっきから 頭が 重い やうで、 氣が落 付かぬ 様で 人に 話しかけられる 0 がいや
であった から、 獨 りで 藏の 問へ 入って 八 犬 傅 を 見た が、 すぐい やになる。 鲤 でも 見ようと 思って
池の ii へ 行って 見た。 緣 側の 柱へ 頭 を もたせて ぼんやり 立つ。 水かさの ました 稻 田から 流れ込ん
だ 浮 草が、 ゆるやかに 迥 りながら、 水 Q 面へ 雨の しづくが 畫 いて は 消し、 畫 いて は 消す 小さい. 紋
と 一緒に 流れて 行く。 鯉 は 片隅の 岩 組の 陰に 仲好く 集った ま、 靜 かに 鰭 を 動かして 居る。 龍舌蘭
の 厚い とげの ある 紫が 濡れ色に 光って 立って 居る。 中二階の 池に 臨んだ 丸窓に は、 昨夜の 淸 香の
淋しい 顏が兒 える。 窓の 緣に頻 杖 をつ いたま、、 何やら 物 思 はし さう に 薄墨 色の 窓の 彼方 を 見つ
めて 居る。 こめかみに 貼った 頭痛 膏 にか、 る 後れ毛 を 撫でつ けながら、 分の 方 を 向いた が、 輕
くうな づ いて 片頓で 笑った。.
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夕方 母上 は、 あんまり 内 を あけて はと 云 ふので、 姉上の 止める のに か、 はらす 歸る 事に なった。 2
「お前 も歸り ませう ね」 と 聞かれた 時、 歸る のが 何だか 名殘り 惜しい 樣な氣 もして 「ゥ ン」 と 鼻
の 中で 瞹眛な 返事 をす る。 姉さんが 「此兒 はい X でせ う。 ねえ、 お前もう 一 晚 泊って おいで」 と
す \ める。 之れ にも r ゥン」 と 鼻で 返事す る。 「泊る の はい i が 姉さんに 世話 をお かけで ない よ」
と 云って いよく 一 人で 歸る 支度 をせられ る。 立場 迄迎 にやった 車が 來 たので 姉さんと 門 迄 送つ
て 出た。 車が 柳の 番所の 迂を 曲って 見え なくなった 時 急に 心細くな つて、 一緒に 歸れ ばよ かった
と 3 心 ふ。 「さあ 御出で」 と 姉さん は 引立てる 様に 內へは ひる。
頭の 工合が いよ. (- 悪くな つて 心細い。 母上と 一緒に 歸れ ばよ かった と 心で 繰 返す。 煙る 霧雨
の ffl 圃道を ゆられて 行く 幌享の 後 影 を 追 ふ 樣な氣 がして、 なつかしい 我家の 門の 柳が 胸に ゆらぐ。
騷々 しい、 殺風景な 酒宴に 何の 心殘 りが あって 歸り そこなった のか。 歸 りたい、 今からで も歸り
たいと 便所の 口の 緣へ 立った ま \ 南天の 枝に か、 つて ゐる 紙の てる 坊さんに 祈る やうに 思 ふ。
雨の 日の 黄昏 は 知らぬ 間に 忍 足で 軒に 迫って 早 や 灯と もし 頃の 伦 しい 時刻になる。 の內は 段々
賑 かになる。 はしゃいだ 笑聲 などが 頭に 響いて 伦 しさ を增す ばかりで ある。
姉上に、 少し 心 持が 惡 いからと、 云 ひにくかった の を やっと 云って 早く 床 を 取って もらって 寢
蘭 舌 龍
た。 萌黄 地に 肉色で 大きく 鶴の 丸 を 染め 祓いた 更紗 蒲 團が今 も 心に 殘 つて 居る。 頭が 冴えて 眠ら
れ さう もない。 天井に 吊るした 金銀 色の 蠅 除け 玉に 寫 つた 小さい 自分の 寢姿を 見て 居る と、 妙に
氣が 遠くなる 樣で、 體が 段々 落ちて 行く 様な 何とも 知れす 心細い 氣 がする。 母上 はもう うちへ 歸
りついて 奥の 佛 壇の 前で 何 かして 居られる かと 思 ふと 譯も なく 悲しくなる。 姉さんの うちが 賑か
なのに 比べて 我家 G 淋し さが 身に しむ。 いろんな 事を考 へて 夜着の 領を 嚙んで 居る と、 淚が眼 じ
りから こめかみ を傳 うて 枕に しみ 入る。 座敷で は 「夜の 雨」 を 唄 ふの が 聞え る。 池の 龍舌蘭が 眼
に 浮ぶ と、 淸 香の 額が 見えて 片頰で 笑 ふ。
此夜 凄まじい 雷が 鳴って 雨雲 を 蹴散らした。 朝 はすつ かり 晴れて 强ぃ 日光が 青葉 を 射て 居た a
早 起して 顏を 洗った 自分の 頭 もせい くして、 勇ましい 心 は 公園の 球 投げ、 樋 川の 夜 振と ® けめ
ぐった。
義 ちゃん は 立派に 大きくな つたが、 龍舌蘭 は 今 はない。
雷 はやんだ。 あす は 天 氣 らしい。
(明治 一一 一十 八 年 六 ホトト ギス)
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始め て 此濱 へ 來た の は 春 も 山吹 の 花が 垣根に 散る 夕で あった。 濱へ 汽船が 着い て も 宿 引 の 人 も
来ぬ。 獨り 荷物 を かついで 魚 臭い 漁師町 を 通り 拔け、 敎 はった 通り 防波堤に 沿うて 二 町ば かりの
宿の 裏門 を、 やっとく つた 時、 朧の門 脇に 捨てた 貝殼に、 此の 山吹が 亂れて 居た。 翌朝 見る と、
山吹の 垣の 後 は 桑畑で、 中に 木蓮が 二三 株 美しく いて 居た。 それ も 散って 紫が 茂って 夏が 来た。
はもと 料理屋で あつたの を、 改めて 宿屋に した さう で、 二階の 大廣 問と 云 ふの は 止 地 不相應
に 大きい ものである。 自分 は病氣 療養の 爲 めしば らく 滞在す る 積り だから、 下の 七 挢と札 Q つ
いた 小さい 宝 を 借りて 居た。 - ちょっとした 庭を控 へて、 庭と 桑畑との 境の 船 救 群に は、 宿の 三毛
が來 てよ く晝眠 をす る。 風が 吹けば 雜 外の 柳が 靡く。 二階に 客の ない 時 は大廣 間の 眞 中へ 椅子 を
持 出して、 三十 疊を 一人で 占領しながら 海 を 見晴らす。 右に は染 谷の 岬、 左に は 野 井の 岬、 沖に
は鴻 島が 朝 晚に變 つた 色彩 を 見せる。 三時 頃から はもう 漁船が 歸り 始める。 黑 潮に 洗 はれる 此浦
の 波の 色 は 濃く 紺靑を 染め出して、 夕日に かビ やく. MI 帆と 共に、 強い 生々 とした 眺 である。 之れ
は 美しい が、 夜の 欸乃 は伦 しい。 譯も なしに 身に 沁む。 此處に 來た當 座 は 耳に 馴れぬ 風の 夜の 波
音に :!:: が 醒めて、 遠く 切れく に 消え 人る 唄の 聲を伦 しがった が 馴れ、 ば 苦に もなら ぬ。 宿の 者
も 心安くな つて 見れば 商賣氣 離れた 親切 もあって 嬉しい。 雨が 降って 濱へも 出られぬ 夜 は、 帳場
の 茶話に 呼ばれて、 時には 宿泊人 届の 一 枚 も 手 傅って やる 事 も ある。 の 主人 は 六十 餘り Q 女で
あった。 晝は 大抵 沖へ 釣りに 出る ので、 店 Q 事 は 料理人 兼 番頭の 辰さん に 一 任して 居る らしい C
沖から 歸 ると、 獲物 を燒 い. て 三 匹 Q 猫に 御馳走 をして やる。 猫 は 三毛と 黑と 玉。 夜中に 婆さんが
目を醒 した 時、 一匹で も 足りない と、 家中 を 呼んで 歩く ため、 客の 迷惑す る 事 も 時には ある。 此
婆さんから 色々 の 客の- M: 輪の 話 も 聞かされた。 盗賊が 紳商に 化けて 泊って 居た 時の 話、 縣 鹿の 役
人が 漁師と 同腹に なって 不正 を 働いた 一條な ど、 大方 はこん な 話 を 問 はす 語りに 話した。 屮には
哀れな 話 もあった。 數年 前の 夏、 二階に 泊って 1^ た 若い 美しい 人の 妻の、 肺で 死んだ 臨終の さま
, など、 小說 などで 讀 めば 陳腐な 事 も、 かう して 聞けば 淚が 催される。 浦の 雨 夜の 茶話 は 今 も 心に
•M 殘 つて 居る が、 それよりも、 婆さんの 潮風に 黑 すんだ 顏 よりも、 垣 Q 山吹よりも 深く 心に: ルみ込
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んで 忘られぬ も のが 一 つ ある。
宿の 裏門 を 出て 土 堤へ 上り、 右に 折れる と 松原の は づれに !際 大きい 黑 松が、 潮風に 吹き 曲げ
られた 梢 を 垂れて、 土 堤 下の 藁屋根に 幾 歳の 落葉 を 積んで 居る。 其 松の 根に 小屋の 様な ものが 1
つ ある。 柱 は 竹 を 掘り 立てた ばかり、 屋根 は 骨ば かりの 障子に 荒 筵 を かけた ま \ で、 人の 住む と
も 思 はれぬ が、 內を观 いて 見る と、 船板 を 並べた 上に、 破れ 蒲團が ころがって 居る。 蒲團と 云へ
ば 蒲圑、 古 綿の 板と 云へば さう である。 小屋の すぐ 前に 屋臺 店の 樣なも のが 出來て 居て、 それに
よごれた 叭を 並べ、 馬の 餌に する やうな 芋 Q 切れ端し や、 砂埃に 色の 變 つた 駄菓子が 少しば かり、
ビ ー ル辑の 口 Q とれた のに 夏菊 杯 さした のが 一方に 立て \ ある。 店の 軒に は、 靑ゃ 赤の 短冊に、
歌 か 俳句 か fS き 散らした Q が、 隙 間もなく 下がって 風に あ ふられて 居る。 かう 云 ふ 不思議な 店へ
こんな 物 を 買 ひに 來る 人が あるかと 怪しんだ が、 實 際さう 云 ふ 御 客 は 一度 も 見た 事がなかった。
其れ に も 拘らす 店 はいつ で も 飾られ て 居て ビ— ル 曙の 花 Q 枯れて 居る 事はなかった。
誰れ にも 譯の わからぬ 此 店に は、 心の 知られぬ 熊さん が 居る。
自分 は 濱邊へ 出る のに、 いつも 此 店の 前から 土 堤 を 下りて 行く から 熊さん と は 毎日の やうに 顔
を 合せる。 土用の 日 ざし は 狭い 土 堤 一杯に 涼しい 松の 影 を こしら へて 飽き 足らす、 下{:^^薯畑に
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凰
這 ひか \ らう とする 處に: K きな 丸い 捨石 があって、 熊さん Q 爲に は 好い 安樂 椅子 になって 居る。
もう 五十 を 越えて 居る らしい。 ー體に 逞しい 骨 骸で顏 はいつ も 銅 0 樣ぉ 光って 居る。 頭 はむ さ 苦
しく 延び 煤けて 居る かと 思 ふと、 惜しげ もな く クリ; /.\ に 剃り こぼした 儘 を、 日に 當て、 も平氣
で 居る。
着物 は何處 かの 小 使 Q お古ら しい 小 倉 G 上衣に、 ^色染 の 股引 は 囚徒の かと 思 はれる。 ー體に
無口ら しいが 通りが \り0 漁師な どが 聲を かけて 行く と、 ォ ー と 重い 濁った 返事 をす る。 貧苦に
沈んだ 暗い 聲で はなくて 勢 0 あ る猛獸 Q 吼聲 Q 様で ある。 いつ も 恐ろしく 眞 面目な 顏 をして 煙草
を ふかしながら 沖 Q 方 を 見て 居る。 怒って 居る Q かと 始めは 思った がさう ではない らしい。 いつ
見ても 變ら ぬ、 これが 熊さん の顏 なので あらう。
始めは 此 不思議な 店、 不思議な 熊さん を 氣味惡 く 思うた が、 慣れて しま ふと そんな 感じ もない。
松原 Q 外れ に こんな 店が あ つて こんな 人が 居る 0 は 極めて 自然な 事と なつ てし まって、 能:: さ ん の
歷史 ゃ此店 Q いはれ などに 就いて、 少しも 想像 をした 事 もな く、 人に 尋ねて 見る 氣も 出なかった。
もし これで 何事もなく 別れて しまったら、 恐らく 今頃 は 熊さん の 事な ど は疾に 忘れて しまった か
も 知れぬ が、 唯一 つの 出來 事の あった 爲め 熊さん Q 面影 は 今 も: CI について 淺 つて 居る。
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一 夜 濱を搖 がす 嵐が 荒れた。
嵐の 前の. w、 客の ない 暗い 二階の 欄干に 凭れて 沖 を兑て 居た。 晝 問から 怪しかった 雲足 は 愈"
早くな つて、 北へ くと 飛ぶ。 夕 映の 色 も 常に 異 つた 暗 黄色 を帶 びて 物凄い と 思 ふ 間に、 それ も
消えて、 暮れ か- -る濃 鼠の 空 を、 ちぎれく の 綿雲 は惡 夢の やうに 〔氽 てもなく 沖から 襲うて 來る"
沖の 奥は眞 暗で、 漁火 一 つ 見えぬ。 濕 りを帶 びた 大きな 星が、 ぇ隱れ 雲の 隙 を 瞬く。 いつもな
らば 夕 风の蒸 暑く 重苦しい 時刻で あるが、 今夜 は 妙に, 濕 つぼい 冷い 風が、 一し きり 二し きり 堤 下
の 桑畑から 讽卷 いて は、 暗い 床の間の 褂物を あ ふる。 草 も 木 も 軒の 風鈴 も HT に 兌えぬ 魂が 入って
動く 樣に思 はれる。
濱邊に 焚火 をして 居る のが 見える。 之れ は 毎夜の 事で 其 日 漁した 松 魚 を 割いて 炙る ので あるが"
濱の闇 を 破って 舞 上る 焰の色 は 美しく、 其 ま はりに 動く 赤裸 Q 人影 を鮮 かに 浮上ら せて 居る C 焰
が 靡く 度に それが ゆら/. \ と:^ れて 何となく 凄い。 孕の 鼻の 陰に 泊って 居る 帆前船の 舷燈の い
光が、 大きく うねって 居る。 岬の 上に は 警報 臺の 赤燈が 鈍く 灯って 波に 映る。 何.^ かで ホ— ィと
人 を 呼 ぶ聲が 風の しきりに 图に 響く。
嵐 だと 考 へながら 二階 を 下りて 室に 歸 つた。 机の 前に 寝 禅んで、 戶袋を はたく S 蒸の 葉 すれ を
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嵐
聞きながら、 將に來 らんと する 浦の 嵐の 壯大を 想うた。 海 は 地の 底から 重く 遠くうな つて 來る。
かう 云 ふ 淋しい 夜に はと 帳場へ 話しに 行った。 婆さん は 長火鉢 を 前に 三毛 を 膝へ 乘 せて 居眠り
をして 居る。 辰さん は 小聲で 義太夫 を 唸りながら、 あらの 始末 をして 居る。 女中 部屋の 方で は 陽
氣な 笑聲が もれる。 戶 外の 景色に 引き かへ て此處 はいつ もの 様に 平和で ある。
嵐の 話に なって 婆さん は 古い 記憶の 屮 から 恐ろしく も 凄かった 嵐 を 語る。 辰さん が 板 敷から 相
槌を うつ。 いっかの 大嵐に は黑ぃ 波が 一町に 餘る濱 を 打 上って 松原の 根 を 洗うた" 其 時 沖を兒 て
居た 人の 話に、 霧の 如く 煙の 様な 燐火の 群が 波に 乘 つて 搖 いで 居た さうな。 測られぬ 風の 力で 底
無き 大洋 を あ ふって 地軸と 戰ふ濱 の 嵐に は、 人間の 弱い 事、 小さな 事が 名淺 もな く 露 はれて、 入
の 心 は 幽冥 Q 境へ 引 寄せられ、 こん な 物も兒 る Q だら うと 思うた。
嵐 は 雨 を 添へ て 刻 一 刻に つ のる。 波音 は 次第に 近くなる。
窒へ歸 る 時、 二階へ 通 ふ 階 子 段の 下の 土間 を 通ったら、 鳥屋の 屮で 鶴が 力 サコソ とま だ寢 付か
れ ぬらしく、 ク、 ー と 淋しげ に 鳴いて 居た。 床の 中へ もぐり 込んで 聞く と、 松の 栂か 垣根の 竹 か、
長く 鋭い 叫聲を 立てる。 此樣な 夜に 沖で 死んだ 人々 の 魂が 風に 乘り 波に 漂うて 來て 悲鳴 を 上げる
かと、 さき Q 诱 火の 話 を 思 出し、 しっかりと 夜 衣 Q 袖の 中に 潜む。 聲は それでも 追 ひ 迫って 雨戶 7.
にす がる かと 恐ろしかった。
明 方に はや、 a: いだ。 雨 も 止んだ が 波の音 はいよ く 高かった。
起きる とすぐ 波 を 見ようと 裏の 土 堤へ 出た。
熊さん Q 小屋 は 形 もな く 壌れ て 居る。 雨 を 防ぐ 荒 筵 は 遠い 堤 下へ 飛んで 竹の 柱 は 傾き 倒れ、 軒
を 飾った 短冊 は 雨に 叩け て 松の 青葉と 一緒に 散らばって 居る。 ビ ー ル 曙の 花 も 芋の 切れ端 も散亂
して 熊さん Q 蒲團は 濡れし ほ たれて 居る。 熊さん は と 見廻した が 何處へ 行った か 姿も兒 え ぬ 。
惻 然として 濱邊 へと 堤 を 下りた。 砂 畑の 芋の 蔓は 搔き亂 した 様に 荒らされて、 名殘の 嵐に 白い
葉 裏 を 逆立て \ 居る。 沖 はま だ 暗い。 ちぎ^^か\った雨雲の尾は鴻島の上に垂れか、って、 礎 か
ら 登る 潮 霧と 一 つになる" 近い 岬の 岩間 を 走る 波 は 白い 戴 を 振り 亂 して 狂 ふ 銀 毛の 獅子の 樣 であ
る。 暗綠 色に 濁った 濤は 砂濱を 洗うて 打ち 上った 藻草 を もみ 碎 かう とする。 夥しく 上った 海月が
五色の 眞 砂の 上に 光って 居る の は 美しい。
寛げた 寢衣 Q 胸に 吹き 入る しぶきに 身顫ひ をして ふと 臺 場の 方 を 見る と、 波打 際に しゃがんで
居る 人影が 潮 霧の 中に ぼんやり 見える。 熊さん だと 一目で 知れた。 小 倉の 服に 姊 色の 股引 は 外に
はない。 よべ 0 嵐に 吹き 寄せられた 权片 木片 を 拾 ひ 集めて 居る ので ある。 自分 は 行く ともなく 其
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方へ 歩み寄った。 いつも Q 通りの 銅色の 顔 をして 無心に 藻草の 中 を あさってお る。 顔に は 憂愁の
影 も 見えぬ。 自分が 近寄った の も氣が 付かぬ か、 一 心に 拾って は砂濱 の-高みへ 投げ上げて 居る。
脚 元 近く 迫 る 潮 il^ も 知ら ぬ 顏 で 、 時 々 頭 か ら か ぶ る し ぶ き を拭 は う とも せ ぬ 。
何處 の浦邊 から ともなく 波に. 漂うて 打 上った 木片 板片の 過去の 藤史は 波の 彼方に 葬られて、 こ
こに^ 敢 ない 末 を 見せて 居る。 人の 知らぬ 熊さん の 半生 は賴 みに ならぬ 人 Q 心から 忘られて しま
つた。 遠く もない 墓の 閫に 流木 を 拾うて 居る 此 あはれ な 姿 は ひしと 心に 刻まれた。
壯 大な此 場の 自然の 光景 を 背景に、 此 無心 の 熊さん を 置 い て 見た 刹那 に 自分の 心に 湧いた 感じ
は 筆に も かけす 詞 にも 表 はされ ぬ。
宿へ 歸 つたら 女中 Q 八重が 室の 掃除 をして 居た。 「熊 公の 御 家 はつ ぶれて 仕舞った よ」 と 云つ
たら、 寢 衣を疊 みながら 「マァ 可哀相に あ Q 人 も 御 かみさんの 居た 頃 は あんなで もなかつ たんで
すけれ ど」 と 何 か 身に つまされ でもした 様に しみぐ と 云った。 分 は それに 答へ ネ緣側 0 柱に
凭れた ま \ 嵐 も 名续と 吹き 散る 白雲の 空 を ぼんやり 眺めて 居た。
(明治 一 11 十九 年 十 》:、 ホトト ギス)
暖ぃ緣 に 北::: を 丸く して 横になる。 小枝 Q 先に 散り 殘 つた 枯れ/. \ の 紅^が := に:^ えぬ 風に ふる
へ、 時に 蠅 Q やうな 小さい 蟲が 小春の 日光 を 浴びて 垣根の 口 陰 を斜に 閃く。 眩しくな つた 眼を窒
內へ 移して 鴨居 を 見る と、 こ& にも 初冬の 「森の 繪」 の 額が 薄ら寒く 懸 つて 居る。
中 景 Q 右 の 方 は ^ か 何 か 0 森 で 、 灰 色 を し た 蓬 し い 大 き な は ス ク く と 立 ち 並 ん で 次 IS に 暗
い 奥 0 方へ つ く。 隙 11 もない 茂りの 綠は 霜に 稍 さびて 得 も 云 はれぬ & 彩が 梢から^ へ と,^^かに
移り 變 つて 居る。 コバルト Q 空に は 玉子 色の 綿雲が 流れて、 遠景の 廣 野の * の 丘 • 陵に 紫の 影 を 落
す。 森 Q はづ れ から 近景 へ かけて 石ころの 多い 小徑 がう ねって 出 る處を 橙色 の 服 を 着た 豆 犬の 人
が 長い 棒 を 杖に し、 前に 五六 頭の 牛 羊 を 追うて トボく 出て 來る。 近景に は 低い 灌木が 處々 茂つ
て 中には 蕃の樣 な 枝に 枯 紫が 僅に くっ付いて 居る の も ある。 あちらこちらに 切り倒された 大木の
It の 森
下から、 眞靑な 羊 齒の鋸 葉が 观 いて 居る。
寧ろ 平凡な 畫 題で、 作者 も わからぬ。 が、 自 分 は 此繪を 見る度に 靜 かな M 舍の { 仝 氣が畫 面から
流れ出て、 森の 香は薰 り、 の 叫 を 聞く やうな 氣 がする。 そ C 外に まだなん だか 胸に 響く 様な 鋭
い 喜びと 悲 みの 念が 湧いて 來る。
卄年 前の 我家の すぐ 隣り は 叔父の 屋敷、 從 兄の 信さん の 宅であった。 裏 畑の 竹 藪 Q 中の 小徑か
ら 我家と 往來が 出来て、 垣 Q 向 ふから 熟 柹が靦 けば こちらから 烏瓜が 笑 ふ。 藪の 中に 一本 大きな
赤 椿が あって、 耱の 渡る 頃 は、 落ち 散る 花 を:^ の 枝に 貫いて 戰 遊びの 陣屋 を 飾った。 木の {4! にか
ご を 仕掛けて 鹎を 捕った 事 も ある。
叔父の 家 は 富んで、 奥座敷な ど は廿疊 もあった らう。 美しい 毛氈が いつでも 敷いて あって、 瀾
間に 木彫の 龍の 眼が 光って 居た。
いっか 信さん の 部屋へ 遊びに 行った 時、 見馴れぬ 繪の 額が か \ つて 居た" 何 だと 聞いたら 油畫
だと 云った。 其 頃 0 舍 では 石版 刷の 油畫は 珍しかった ので、 西洋 畫と 云へば 舉 校の 臨 畫帖 より 外
に は 見た ことのない 眼に 始めて 此油畫 を 見た 時の 愉快な 感じ は 忘られぬ。 畫は矢 張 田舍の 風景で、
ゆるやかな 流れの 岸に 水車小屋 があって 柳の 様な 木の下に 白い 頭巾 を かぶった 女が- や 鴨に 餌で も
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やって 居る。 何處で 買った かと 聞いたら、 町の 新 店に こんな 緩 や、 もっと 大きな 美しい のが 澤山
に來て 居る、 ナボレ オンの 戰(=_^'0 繪 があって、 それ も 欲しかった と 云 ふ。
家へ 歸 つて 夕飯の 膳に ついても 繪の 事が 心 を はなれぬ。 黄昏に 袖 無 を 羽織って 母上と 裏の 垣で
寒竹 苟を拔 きながら も 繪の事 を 思って 居た。 薄暗い ラ ムプの 光で 寒竹の 皮 をむ きながら 美しい 緣
を 思 ひ 浮べ て、 淋しい 母 C 橫顏を 見て 居たら 急に 心細い 様な 氣が 胸に 吹き 入って 睫毛に 淚が にじ
んだ。 何故 泣く かと 母に 聞かれて なほ 悲しかった。 そんなに 欲しく ば 買って 上げる。 si- の 癖に そ
んな 事で はと 論され て 更にし やくり 上げた。 母は蟲 抑へ の藥を 取り出して 呑ませて くれたが あの
時の 自分 Q 心 は 今でも 說明は 出来ぬ。 幼く 片親の 手 一 つで 育って 餘り豐 でない 生活が 朧げに 胸に
しみ 浮世の 木枯 はもう 周圍に 迫って 居た から、 何 かの 刺戟 はすぐ に譯の わからぬ 悲みを 誘うた の
だ。
あくる 日錢を 貰うて 先づ擧 校へ 行った が、 敎場 でも 時々 繪の 事に 心 を 奪 はれ、 先生に 何 か 聞か
れても 何 を 聞かれた か 分らぬ 様な 事 もあった。 放 課の ベル を 待ち兼ねて 學校を 飛 出し、 1;^ さんに
敎 はった 新 店 を 尋ねたら、 すぐに わかった。 店へ は ひると 一面に 吊した 絡の 二 スの 香に 醉 うてし
まふ。 あれ も 好い。 これ も氣に 入った。 鍍冶屋 の 煙突から 吹き出る 眞 赤な 焰が黑 ぃ樹に 映えて 遠
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い 森の 上に 靑ぃ 月が 出て 居る 槍 も 欲しかった が、 何となく 靜 かな 此 「森の 檎」 にきめ た。 粗末な
額緣を はめて 貰って 其 上 を 大事に 新聞で 包んで 店 を 出た 時 は、 心臓が 高い 昔 を 立て \ 踊って 居た-
歸り 途に舊 城の 後 を 通った。 御城の 杉の 梢 は 丁度 此繪と 同じ 様な さびた 色 をして、 お 濠の 石 崖
の 上に は 葉 を ふるうた 椋 Q 大木が、 枯菰 Q 中 Q つめたい 水に 影 を 落して 居る。 溱に 隣った 牧牛 舍
の 柵の 中には 親 牛と 小牛が 四 五頭、 愉快 さう にから だ を 横に ゆすって はねて 居る。 自分 もなん だ
か 嬉しくな つて 口笛 をピ ュ ッ くと 鳴らしながら 飛ぶ やうに して 歸 つた。
森の 鎗が 引出す 記憶に は 限りがない。 竪 一尺 横 一 尺 五寸の 粗末な 額緣の 中には あらゆる 幼時の
美しい 幻が 疊み 込まれて 居て、 折に ふれて は畫 面に 浮 出る。 現世の 故鄕 はう つり 變 つても 畫 Q 中
に 寫る廿 年の 昔 はさな がらに 美しい。 外の 記憶が うすれて 來る 程、 森の 緣 Q 記憶 は鮮 になって 來
る 0
他鄕に 漂浪しても 此鎗 だけ は 捨てす に 持って来た。 額緣も 古ぼけ、 紙 も 大分 煤けた やう だが、
「森の 繪」 はいつ でも 新しい。 「明治 四十 月、 ホトド ギス)
少し 肺炎の 徴候が 見える やう だから 能く 御注意なさい、 いづれ 今夜もう 一遍 見に 來 ますから と
云 ひ 置いて 醫 者は歸 つてし まった。
妻 は 枕元の 火鉢の 傍で 縫 ひかけ の 子供の 春着 を 膝への せた ま \ 向 ふの 唐紙の 更紗 模様 をボ ン
ャリ兑 詰めて 何か考 へて 居た が、 思 ひ 出した 様に、 針 を 動かし 始める。 唐 縮緬 Q 三つ身の 袖に は
唤き 亂れた 春の 花 車が 染め出されて ゐる。 孃ゃ はと 聞く と、 さっきから 晝寢と 答へ た 切り、 元の
無言に 歸る。 火鉢の 鐵 瓶の 單調 なかす かな 音を立て、 居る の だけが、 何だか 心 强ぃ樣 な 感じ を 起
させる。 眼 険に蔽 ひか \ つて 來る米 袋 を 直しながら、 障子の ガラス 越しに 小春の {<.! を 見る。 透明
な 光 は 天地に 充 ちて そよ との 風 もない。 門の 垣根の 外に は 近所の 子供が 二三 人 集って、 聲 高に 何
か 云って 居る が、 其聲が 遠くの やうに 聞え る。 枕に つけた 片方 Q 耳 0 奥で は、 動脈 Q 濯る 音が 高
影の 菊枯
く 明に つて 居る。 .
又 肺炎 かと 思 ふ。 此れ迄 旣に 二度、 同じ 病氣に 罹った 時分の 事 も 思 ひ 出す。 始めての 時 は 未だ
小舉 時代の 事で、 大方の 事 は 忘れて 仕舞った。 病氣の 苦しみな ど は 丸き り 忘れて しまって、 唯 病
氣の 時に 嬉しかった 様な 事 だけが、 順序 もな く 浮んで 来る。 ー體 自分 は兩 親に 取って は 掛け 眷へ
のない 獨り 子で、 我儘にば かり 育った が、 病氣 となると 一層の 我儘で 手が 付けられなかった さう
である。 藥 でも 中々 大人しく のまぬ。 此れ を飮ん だら あれ を 買って やる からと 云った 様な 事で、
枕元に は 玩具 ゃ繪 本が 堆く なって 居た。 少し 快くなる 頃 はもう 外へ 遊びに 出ようと する、 それ を
引き止める 爲 めの 玩具が 叉 増した。 之れ が 例に なって、 其 後 はなんでも 少し 金目の か、 る 様な 欲
しい 物 は、 病氣の 時に ねだる 事に した。 病氣を 種に 親 を ゆする 様な 事を覺 えたの は あの 時だった
と 思 ふと、 親の 額が 今更に なつかしい。 二度目に 罹った 時 は 中 學校を 出て 高等 學 校に 移った 明け
の 春であった。 始めての 他鄕 G 空で、 某 病院の 二階 Q ゴヮ, ^する 寢 臺に寢 乍ら 窓の 櫻の 朧月 を
見た 時 は 流石に 心細い と S 心った。 丁度 ニ擧 期の 試驗 のす ぐ 前であった が、 忙しい 中から 同 鄕の友
逹 等が 入り 代り 見舞に 來て くれ、 みんな 足しない 身錢を 切って 菓子 だの rai^ 物 だのと 持って来て は、
翳 員に 叱られる 樣な 大きな 聲で 愉快な 話 をして 慰めて くれた。 あの 時の 事 を 今から 考へ て 見る と、 び
或は 自分の 生涯の 中で 最も 幸福 な 時だった かも 知れぬ と 思 ふ。 憎まれ 兒 世に 蔓 ると 云 ふ 諺の 裏 を
云へば、 身體が 丈夫で、 智惠 があって、 金が あって、 世間 を鬮 歩す る爲 めに 生れた 様な 人 は、 友
情の 籠 つ た 林檎 を かじ つて 笑 ひな がら 泣く 樣な事 の あるの を 知らす にし まふ かも 知れない。 あ Q
頃 自分 は愛讀 して 居た 書物な ど G 影響から、 人間 は 別になん にもし なくても、 平和に 綺麗に 一生
を 過せば それでよ いと 云った 様な 考が 漠然と 出来て 居た ので、 病氣で 試驗を 休まう が、 落第し よ
うが、 そんな 事 は 一向 心配し なかった。 寧ろ 病氣で 身體が 弱くな つて、 學問 など 出来ぬ 様になれ
ば、 それだけ 自分の 夢み て 居る 様な 無爲の 生涯に 近づく ので は あるまい かと 考へ たりした。 E 舍
に 少しば かりの 田地が あるから、 それ を 生計の しろと して 慰みに 花で も 作り、 餘裕が あれば 好き
な 本で も 買って 讀む。 朝 一遍 田 を 見!! つて、 歸 ると 宅 溫ぃ牛 a がの める し、 讀 *: に 飽きたら 花
に 水で もやって ピアノで も 鳴らす。 誰れ に 恐れる 事 も 諛ふ事 も 入らぬ、 唯 我獨尊 Q 生 1^ で 愉快 だ
らうと 夢の 樣な 呑氣な 事を眞 面目に 考 へて 居た。 それで 肺炎から 紡 核に ならう と、 なるまい と、
そんな 事 は 念頭に も 置かなかった。 肺炎 は必 すなほる と定 つたわけ でもな し、 一 つ il 違へば 死ぬ
だら うに、 あの 時 は 不思議に 死と 云 ふ 事 は 少しも 考 へなかった やうで ある。 分 は 夭死す るの だ
なと 思った 事 はあった が、 死が 恐ろしくて さう 思った ので はない。 夭死と 云 ふ 事が、 何だか 一 稀
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影の 菊枯
の 美しい 事の 様な 心 持が したし、 又 そ Q 時考 へて 居た 死と 云 ふ も Q は、 有が 無になる 様な 大事 件
ではなく、 唯 花が 散って 其 代りに 若葉の 出る やうな ほんの 一寸した 變り 目で、 人が 死んでも 心 は
そこらの 野の花に なつ て^いて 居る 樣な 事を考 へて 居た。 こんな 心 持であった から、 多少 C 病苦
はあった にも 拘ら す、 心 は 不思議な 位 愉快であった。 呑氣 にあ せらす よく 養生した 爲 めか、 あの
後 はから だが 却って 前より は 良くな つた。 そして 醫者ゃ 友達の 勸 める がま、 運動 を 始めた。 テ 一一
ス もやった、 自轉享 も 稽古した。 食物で も 肉類な ど は餘り 好きでなかった 0 が 蓮 動 を やり 出して
から、 なんでも 好きに なり、 酒 も あの 頃から 少し 飮 める やうに なった。 前に は 人前に 出る とぢき
に はにかんだ りした のが、 校友 會で 下手な 獨唱を 平氣で やる 様になった。 なんだか 自分 Q 性情に .
迄、 著しい 變化 Q 起った 事 は、 自分で もよ くわかった し、 友達な ども さう 云って 居た。 しかし、
それ は 唯 表面に 現 はれた 性行の 變 りに 過ぎぬ ので、 生れ 付き 消極的な 性質 は 何處迄 も變ら ぬ。 そ
れ で な. け れ ば 今頃 こ ん な 消極的な 俗吏 になって、 毎日 同じ やうな 消極的な 仕事 を不 思議と も 思 は
す やって 居る 害 はない かも 知れぬ。 一 體 自分 は 法科な どへ は ひって こんな 俗吏に ならう と 云ふ樣
な考は 毛頭なかった。 中擧 校に 居た 頃、 先で は 何になる 積り かな ど、 よく 人に 聞かれた 事 は あつ
たが、 になる 積り だか、 そんな 事 はま だ考 へて 居なかった。 もし 考 へたら 何もなる ものが 無く 8
て 困った かも 知れぬ。 官吏 はどう かと 云った 人 もあった が、 役人と 云 ふ もの は始 から 嫌だった。 g
譯も わからないで 無暗に 威張り散らす G が 御 役人 だと 思って 居た。 郵便局の 雇 や、 稅務署 の受附
などに、 時 をり 權突を 食 はせられ る 度に、 益ミ 厭に なった。 それから 軍人 も 嫌であった。 其頃始
めて 國の 聯隊が 出來 て、 兵隊 ゃ將 校の 姿が 物珍しく、 劍ゃ勳 章の 目につく うち は 好かった が、 段
段 厭な 事が 子供の 目に 見えて 來た。 日曜に 村 0 煮寶屋 などの 二階から、 大勢 兵隊が 赤い 顔 を 出し
て、 近 逢の 娘で も 下 を 通り か、 ると、 好 的々々 杯と 冷 かしたり、 グヅ/ \ -に醉 つて 二三 人 も 手 を
引き合うて 狭い 田 舍道を 傍若無人に 歩いたり する のが、 非常に 不愉快な 感じ を 起させた。 兵隊 は
いやな もので も、 將 校と 云 ふ もの はい、 もの だら うと 思って 居た が、 いっか 練兵場で 練兵す るの
を 見て 居たら、 1 右い 將 校が 一 人の 兵隊 をつ かまへ て、 何か聲 高に 罵し つて 居た。 其 言 紫 使の 野卑
で 憎らしかった に は、 傍で 聞いて 居る 子供心に も カット 腹が立った。 其 時 許り は 兵隊が 可哀相で、
反身に なった 士官の 胸倉 へ 飛び付 い て やらう か と m 心 つ た。 其れ 以來 軍人と 云 ふ もの は 凡て あんな
もの かと 云 ふ 樣な單 純な 考が 頭に 沁みて 今でも 消えぬ。 こんな 譯 だから、 學校 でも 軍人 希望の 者
など、 はどうしても 肌が 合 はぬ、 さう 云 ふ 連中から 弱 蟲黨と 目指されて、 行軍 や 演習の 時な ど、
隨分 意地 惡く いぢめ られ たもの だ。 實 際弱蟲 の泣蟲 にはちが ひなかつ たが、 それでも 曲った 事 や
影の 菊枯
無法な 事に 負か される の は大 嫌で あった。 無理の 壓 迫が 劇し い 時には 弱蟲 の. 本性 を 現し てす ぐ 泣
き 出す が、 P (けぬ 魂 だけ は 弱い 體 魑を驅 つて 軍人 黨と 格鬪を やらせた。 意氣 地な く 泣きながら も
死力 を 出して、 何處 でも 手當り 次第に 引つ かき 嚼 みつくの であった。 喧嘩 を 慰みと 思って 居る 軍
人黨 と、 一生懸命の 弱蟲 との 袼鬪に は 大抵 利口な 軍人の 方が 手 を 引く。 これ は どちらが 勝って ど
ちらが 負けた の だか、 今考 へても 判らない。
ゥト くこん な 事を考 へて 居た が、 氣が ついて 見る と 垣の 外で はさつ きの 子供 等が まだ 大きな
聲で 歌ったり わめいた りして 居る。 年 かさら しいの が 何 か大將 ぶって 指揮して 居る。 こんなの も
大方 軍人 黨 になる だら うと 思って、 過ぎた 我が 小 半生の 影が 垣の 外に ちらつく やうに 思 ふ。 突然
向 ふ Q 家の 板 辨 へ 何 か 打 つ つ けた 音が したと 思 ふ と 一 齊に驅 け 出し て それ 切り 何處か へ 行って 仕
舞った。 風のう なりが プン と 聞え て 居る。 熱 は 追々 高くなる らしい。 口が 乾いて 舌が 上顎に
貼り付く。 少し 眠りたい と 思うて 寢 返り をす ると、 額の 氷袋の 氷が カチ くと 鳴って 袋 は 額 を は
なれる。 まだ 傍で 針 を 使うて 居た 妻 は それ を當 てな ほしながら 氣分を 問 ふ。 一片の 旨い 氷 を 口に
入れて 賞 ふ。
もう 何事 も考 へまい と 思った が、 埶 一の 爲に 亂れた 頭に はさつ き 迄考へ て 居た 樣な 事が うるさく
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ig き 纏うて 來る。 そして 腦が 過敏に なって 居る 爲か、 不斷 はまる で 忘れて 居た 様な 事 迄 思 出して
來る。 自分 は 子供の 時から 繕が 好きで、 美しい 総 を 見れば 欲しい、 美しい 物 を 見れば 畫 いて 見た
い、 新聞 雜 誌の 插畫 でも 何でも 彩色して 見たい。 彩色と 云っても 搶具は 雌 黄に 藍 墨に 代赭 位より
しかなかった が、 いっか 伯父が 東京 博 覽會の 土産に 水 彩 擔具を 買って 來て くれた 時 は、 嬉しくて
幾晚も 枕- 兀へ SJ^ いて 寢て、 服が 覺 める や 否や 大急ぎで 蓋 を あけて、 數々 鎗 具を撿 杏した。 夕燒の
雲 C 色、 霜枯れの 野の 色 を 見て は、 どうしたら あんな 色が 出来る だら うと、 それが 一 つの 胸 を 燕
かす 様な 望みであった。 伯父 は畫 かきに なったら どう だと 云った 事が ある。 c: 分 も 屮擧に 居た 頃
父に 其 事 を 話して、 鎗を習 はせ て くれぬ かと 願った 事が 屢、、 ある。 其 度に 父 はいつ でも かう 云つ
てお た。 俺 はお まへの 行末の 志望に 就いては 少しも 干涉 せぬ。 附け燒 刃と 云 ふ もの は 何にもなら
ぬ ものである。 何でも CE 分の 好いた 方、 氣に {! いた 事 を やる が 得策 だ。 倂し綺 は それば かり を 職
業と して、 それで 生活し ようと 云 ふに は餘 りに 不利な ものである。 折角 腕 は 立派で も、 衣食に 追
はれて 畫く樣 では、 よい 繪は 出来す、 第一 繪に氣 品が なくなる。 何でもい \ が、 外に も 少し 立派
に 衣食の 得らる、 樣な事 を 修めて、 傍ら 自分の 慰み半分:^ を かく 事に したら どうか。 衣食 足った
人の 道 樂に畫 いた もの は 下手で も 肉 然の氣 品が あって 尊い もの だ。 とかう 云 ふので ある。 自分 も
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影の 菊枯
成程と 3=J つて 其の 方 は あ. きらめた が、 さらば 何 を やって 身 を 立てる かと 考へ て も、 やっと 中擧を
出ようと 云 ふ 自分に、 どんな 事が 最も 好い か 分り 鼓ね た。 工科 は 數學が 要る さう だから やめた。
.醫 科 は 死骸 を 解剖す ると 聞いた から 斷 つた。 そして 父の 云 ふま \に 進まぬな がら 法科へ は ひって
政治 を やった。 父 は 附け燒 刃 はせ ぬく と 思 ひながら、 終に 獨り 子に 附け燒 刃の 政治 科 を 修めさ
せた 事になる。 併し 之 は 恐らく 誰の 罪で も あるまい。 rtl 分は此 事を考 へる と、 何よりも 年老いた
父に 氣の毒 だ。 折角 一身 を 立 立 させようと 思へば こそ、 祖先 傳來の 田地 を 減らして 迄 學資を 給し
て くれた 父 を、 まあ 失望 させた 様な 有様で、 深い m 舍に此 年 迄 燻ぶらせて 居る かと 思 ふと、 何
となく 悲しい 心 持に なって しま ふの だ。 三十に して 辆 俗吏な りと 云 ふ樣な 句が あつたと 思 ふが、
自分の 今 は 正に それで ある。 今ハ 牛の 文官 試験に も殘 念ながら 落第して しまった。 課長の 處へ挨 接
に 行ったら、 仕方がない 乂 やる さと 云って くれた。 分 もさう 思った。 去年の 試驗 にしく じった
時 も 矢張り 仕方がな いと 思った が、 其 時 仕方がな いと 今度のと は 少し 心 持が 遠 ふ。 去年 0 は 何
處か 快活な、 希望の 力の 籠った 「仕方がない」 であった が、 今度のに はもう 弱い 失望の 嘆 聲が少
し 加 はった 様に 思 はれる。 分ながら 心細い。
四 五日 前 役所で 忘年 會 の廻狀 がま はった。 會費は 年末 賞與 の三プ B セ ント、 伍し 賞與 なかり し
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者 は 金贰圓 也と あった。 自分 は 試驗の 準備で 大分 役所 も 休んだ 爲に、 賞與は 受けなかった が、 廻
狀の 但し 書が 妙に 可笑しかった からつ い 出掛ける 氣 になって 出席した。 少し 酒を過ごして Qf
途 で寒氣 がした が、 あの 時 はもう 旣に 病に 罹って 居た の だ。 歸 つて 寢 たら 熱が 出て それ 切り 起き
られ ぬ。 醫者は 流行 性で 大した 事 はない と 云って 居た が、 今 曰 来た 時 は 妙に 丁寧に 胸 を 叩いたり
聞いたり して 首 を ひねって とう. あんな こと を 云って 歸 つた。 愈、、 肺炎 だら うか。 さう 思 ふと
なんだか 呼吸が 苦しい 樣 である。 熟 は 段々 上る らしい。 天井 を 見る と 非常に 遠く える。 耳が 絡
えす 鳴って 居る。 傍に 坐った 妻の 顔が 小さく 遠い 處に 居る 様で、 その 顔色が 妙に 蒼く 獨 つて 兑ぇ
る。 妻 は 氷袋 を氣 にして 時々 さはって 見る が、 始終 無言で ある。 子供 はま だよ く 寢てゐ るか 一:: も
せぬ。 何となく 淋しい。 人に は 遠く 離れた 廣 問の 眞 中に、 しんとして 寢て 居る 樣な心 持で ある。
表の 通りで は 砂利 をかん で 勢よ く 駅け る 人車の 矢聲も 聞え る。 晴れ 切った. S か &は、 かすかな、
そして 長閑な 世間の どよめきが 聞え て來 る。 それ を 自分 だげ が 陰氣な 穴の 中で 聞いて ゐる 樣な氣
がする。 何處か 遊びに 行って 見たい。 行かれぬ のでな ほさう 思 ふ。 E 端邊 りで も 好い。 廣々 した
畑地に 霜 解 を 踏んで、 冬枯れの 木立の 上に 高い 蒼. S を 流れる 雲で も 見ながら、 當も なく 歩いて 居
たいと 思 ふ。 いつも は 毎 s 一日 役所の 殺風景な 薄暗い 部屋に C み 籠って 居る し、 日曜と 云っても
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影の 菊枯
餘 計な 調べ物 ゃ內 職の 飜譯 などに 追 はれて、 こんな 事を考 へた 事も少 いが、 ^ん で寢て 見る と、
急に 戶外 のうら、 かな 光が 戀 しくて 胸 を くすぐられる 樣 である。 早くな ほり 度い。 なほつ たらみ
ん なを 連れて 一日 位 遊びに 行かう。 いつ 治る だら う。 無論 治る 事 は 吃 度 治る と 思って 見た が、 ふ
つと 二三 年 前 肺炎で 死んだ 姪の 事 を 思 出す。 姪 は 死ぬ る 少し 前まで、 わたしが 治ったら 何 處へ行
くと か、 何 を 買 ふと か、 よく そんな 事 を 云って 居た ので、 死んで から は みんなで 其 こと を 云って
よく 泣いた。 肺炎 は 容易なら ぬ病氣 だと 思 ふと、 姪の 美しく 熱に ほてった、 いまば の 面影が あり
あり 見える。 併し 自分 は 死にた くても 死なれぬ。 もしもの 事が あったら 老い 衰 へた 兩親ゃ 妻子 は
どうなる の だと 思 ふと 滿 身の 血潮 は 一時に 頭に 漲る。 悶え 苦し さに 覺ぇ, f 唸り 聲を 出す と、 妻 は
驚いて さし 覼 いたが 急いで 勝手の 方へ 行って 氷 を 取り かへ て來 た。 一 時に 氷が 增 してよ く 冷える
と 見えて、 少し 心が 落 付いた が、 次第に 昇る 熱の 爲 めに、 纏まった 意識の 力 は 弱くな り、 それに
つれて 恐ろしい 執 一 病の 幻像 はもう 眼の 前に 押 寄せて 來る。 いつの 間に か 自分と 云 ふ ものが 一 一人に
別れる。 二人で は あるが どちらも 自分で ある。 元來ー つで あるべき ものが 無理に 二つに 引き わけ
られ、 それが 一緒にな らう/ \ 'と 悶え 苦しむ 樣 でも あり、 又 別れよう/ \- とする の を 恐ろしい 力
で 一 つに しょうくと 責め付けられる 樣 でも ある。 其 苦しみ はとても 名狀 が出來 ぬ。 やっと 其始
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末が 付いた と s:- ふと 今度 は 手と も 足と も 胸と も 云 はす、 綿の 樣に柔 い、 しかも 紛の樣 に 重い もの
で、 しっかり 抑へ 付けられる。 藻 凝き 度くても 體は 一寸 も 動かぬ。 共內 に,::: 分のから だは 深い 深
い 地の 底へ 靜に 何處迄 もと 運ばれて 行く。 もう 苦しく はない が、 唯 非常に 心細い。 いつの 間に か
暗い 何もない 穴の 様な 處へ來 て 居る。 自分の 外に は 何物 もない。 何の 物 昔 も 聞えぬ。 环に 響く は
唯 身 を燒く 熱に 湧く 血の 音と、 せ はしい 自分の 呼吸の みで ある。 何者と も 知れぬ 權 威の 命令で、
自分 は 未来永劫 此の 闇の 巾に 封じ込められて しまったの だと 思 ふ。 # 界の盡 きる 時が 來て も、 一
寸も 此の 閱の 外に 踏み出す こと は 出来ぬ。 そしてい っ迄經 つても、 死ぬ と 云 ふこと は 許されない。
浮世 の 花の香 も せ ぬ 常闇 の國に 永劫 生きて 、 唯 名ば かりに 生きて 居な けれ ば なら ぬかと S 心 ふ と、
何とも 知れぬ 恐ろし さにから だが すくむ。 生涯の 出 來事ゃ 光景が、 稻 妻の 様に 一. 時に 腦裹に 閃い
たと 思 ふと それ は 消えて、 身 を 圍る闇 は 深さ も 奧行も 知れぬ。 どうかして 此處を 逃れ出たい。 今
一度 小春の R 光 を 見れば それでよ い。 霜 解 道 を 踏んで 白雲 を 見れば それでよ い。 恐ろしい 闇、 恐
ろしい 命と 身 を 悶えた 拍子に、 永 袋が すべって 眼が さめた。 怖ろ しい 夢 は 破れて 平和な 靜 かな 冬
Q 日影 は斜に 障子に さして 店る。 緣に 出した 花瓶の 枯 菊の 影が うら 淋しく うつって、 今::! も II か
に 暮れ か、 つて 居る。 發汗劑 のき \ めか、 漂 ふ 樣な滿 身の 汗 を、 妻 は 乾いた タオルで 拭うて くれ
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た 時、 勝手の 方から 何も 知らぬ 子供が カタ コトと 唐紙 を あけて 半分 額 を 出して にこく した-
時 自分 は 張りつ めた 心が 一時に ゆるむ 樣な氣 がして 心 淋しく 笑った が、 眼から は淚が 力なく
れ 落ちた。 (明治 四十 年 二月、 ホトト ギス)
8
9
やもり 物語
唯 取り止め もっかぬ 短夜の 物語で ある。
毎年 夏 始めに、 程近い 植物園から 此 わたりへ かけ、 ー體の 若葉の 梢が 茂り 黑み、 情ない {め 風が
遠い 街 Q 塵 を 揚げて 森の 香の 淸ぃ此 處等迄 も 吹き込んで 来る 頃になる と、 定まった 樣に腦 の 工合
が 悪くなる。 殺風景な 下宿の 庭に I ぉ陶 しく 生 ひくす ぶった 八つ手 0 葉 藤に、 夕闇の 慕が 出る! 3^ に
は签、 - 悪くなる ばかりで ある。 何 をす るの も懶 くつ まらない。 過ぎ去った 樣々 の 不幸 を 女々 しく
悔ん だり、 意氣 地の ない 今の 境遇に 愛想 をつ かすの も此 頃の 事で ある。 E 分の 様な 身 も 心 も 弱い
人間 は、 孟夏 を迎 ふる 强烈な 自然の 力に 壓 服され て ひとりでに こんな 心 持になる のかと 考 へた 事
も ある。 . こんな 厭な 時候に、 唯一 つ 嬉し いのは、 心 ゆく 許り 降る 雨の 夕 を、 風呂に 行く 事で ある"
ひどい 道に 古靴 を 引きす つて 役所から 歸 ると、 .ゅ| れた 服もシ ャ ッ も晚ぎ 捨て 、汗 を ふき、
語 物り もや
四疊 半の 中 敷に 腰 を かけて、 森の 葉末、 庭の 苔の 底 迄 もとし み 入る 雨の 音 を 聞く のが 先づ 嬉しい „
塵埃に くすぶった 草木の 葉が 洗 はれて 美しい 濃綠に 返る の を 見る と 自分の 腦の淘 り も 一 緒に 洗 ひ
淸 めら れ たやうな 心 持が す る。 そして じめ /\ す る 肌 Q 汚れ も 洗 つ て 淸淨な 心 になり たくなる の
で、 手拭 を さげて 主婦の 處へ伞 と 下駄 を 出して 貰 ひに 行く。 主婦 はいつ も此 雨の ふるのに お 風呂
です かと 聞く が、 自分 は.,.? が 降る から 出掛ける ので ある。 門 を 出る と伞 をた k く 雨の 音 も、 高い
足駄 C- 踏み 心地 もよ い。
下宿から 風呂屋 迄 は 一 町に 足らぬ」 繁陶 しい 程兩 側から 稱の蔽 ひ 重った 暗闇 阪を 降り 盡 して、
や-に 曲れば 瞎場 である。 雨 Q 日に は 浴客 も 少なく 靜で よい。 は ひって 居る 中に もう 燈 がっく。 疲
勞も 不平 も 洗 ひ 流して 蘇った 様になって 歸る 暗闇 阪は漆 Q 様な 闇で ある。 阪の 中程に 街燈が 唯 一-
つ 覺 束ない 光に 邊りを 照らして 居る。 片側の 大名 邸の 高い 土 堤の 上に 茂り 重る 获靑芒 0 上から、
芭蕉の 廣 葉が 大 わら はに 道へ 差し出て、 街燈の 下まで 垂れ 下り、 風の 夜 は 大きな 黑ぃ 影が 道 一杯
に ゆ 1 る」 可也に 長い 此阪の 凸凹 道に 唯一 つの 燈 火と 其 ま はり C 茂りの さま は、 唯 さへ 一種の 强
い 印象 を與 へる ので あるが、 一 層 自分の 心 を 引いた の は 其 街燈に 止った 一 疋の 小さい やもりで あ
つ.^」。 汚れ 某け た ガラスに 吸 ひ 付いた 樣に 細-おいから だ を 弓形に 曲げた 傣 身じろき もせぬ。 氣味
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惡く眞 白な 腹 を g 一ら されて さながら 水 Q 樣な 光の 中に 浮いて 居る。 銀の. 雨 は 此前を かすめて 色蕉
の 背 をた、 く。 立 止って 氣を つけて 見る と、 頭に 突き出た 大きな 眼 は、 怪しい まなざしに 何物 か
を 呪うて 居る かと 思 はれた。
始めて 此阪の やもり を 見た 時、 自分 はふと こんな 事 を 思 ひ 出した。 自分が 十九 歳の 夏休みに 父
に 伴 はれて 上京し 魏 町の 宿屋に 二月ば かり 泊って 居た 時の 事で ある。 と ある 雨の 夜、 父 は 他所 Q
宴會に 招かれて 更ける 迄歸ら す、 離れの 十疊 はしん として 鐵 瓶の たぎる 音の み 冴える" 外に は 程
近い 山 王臺の 森から 軒の 板 庇 を靜に そ、 ぐ 雨の 昔も伦 しい。 所在な さに 緣 側の 障子に 背 を もたせ
て 宿で 借りた 尺八 を 吹いて 居た。 一し きり 襲 ひ 来る 雨の 足に」 m 敷から さす 灯が 映えて、 庭 は金絲
の 光に 滿 つる。 恍惚と して 居た 時に 雨 を 侵す 傘 の 昔と 輕ぃ 庭下駄の 昔が 入 口に 止んで. c い 浴衣 の
姿が 見えた。 女中のお 房が 雨戶 をし めに 来たので ある。 自分 は 笛 を 下に 置いて 座敷に は ひった。
女中 は緣 側の 戶を 一枚々々 としめ て 行って 殘る 一 枚 を 半ばで 止め、 暗い 庭の 方 を じっと見て 居る-
自分 は 父の 机の 前に 足を投 出した 儘で 無心に 華 車な 浴衣 の 後 姿 から 白 い $: 頸 を 見上げ た 時、 女 は
肩 越しに チラと 振り向い たと 思 ふ 間に 戶を はたと しめた。 此 時の 女の 顏は 不思議な 美し さに 輝い
て、 涼しい 眼の 中に 燃 ゆる 樣な光 は 自分の 胸 を 射る かと 思った が、 纏て 緣 側に 手 をつ いて、 ん„„ ^し
100
語 物り もや
くば 風呂 を 御召し あそば せと 云つ た 時 はもう 平生 の お 房で あった。 女が 去つ た 後 自分 は 立 つて 雨
戶を 一 枚 あけて 庭 を 見た。 霧の 様に 細かな 雨が 降って 居る。 何處 かで 轡蟲の 鳴く のが 靜な 闇に 響
く。 夢から 醒めた やうな 心 持で ある。 戸袋の すぐ 横に、 便所の 窓の 磨 砲 子から 朧な光 Q さすのに
眼 をう つす と、 瘦せ たや もりが 一疋、 雨に 迷 ふ 蚊 を 吸 ふとて か、 窓の 片側に 黑 いくの 字を畫 いて
居た。
其 後田 舍へ歸 つてから も、 再び 東京に 出た 後 も、 つ ひ 一度 もや もりとい ふ もの を 見なかった が、
駒 込の 下宿に 移って 後、 夏 も 名 殘の或 夜の 雨に 此の 暗闇 阪の やもり を 見つけた 時、 十九の 昔の 丁
夜が ありく 思 ひ 出された。 あの 後 父が 再び 上京して 歸 つた 時の 話の 末に、 お 房と 云 ふ 女中 は緣
あって 或る 大尉と かの 妻に なった と 聞いた。 事に よれば 今 も 同じ 東京に 居る かも 知れぬ。 彼 は 云
は 玉の輿に のった とも 云 はれよう が、 自分の 境遇 は 隨分變 つた。 假令 昔のお 房に 再會 する 樣な
事が あっても、 今 0 自分 を 十 年の 昔 豪奢 を盡 した 父の 子と は 誰れ が 思 はう。 やもり を 見て 昔 を 思
ひ 出す と 運命の たよりな さとい ふ 事 を 今更の 樣に 感じる。 そして 折角 風呂に 入って 輕く なった 心
を 腐らして しま ふので あった。
やもり は 雨の ふる 夜毎に 暗闇 阪の 街燈に 出て 居る が、 いつ 何處 から 這 ひ 上る とも 知れぬ。 氣を 1
付けて おた にも 拘らす 一度 も 柱 を 登る 姿 を 見た 事がない。 日の 暮れる 迄 は 影 も 見えす、 夜 はいつ
の 間に か 現 はれて ガラス に^り 付けた 樣に 身動きせぬ。 朝 出が けに 見る ともう 居ない。 夜 一夜 あ
の 儘に 貼り付いて 居た のが 朝の 光 と 共 に 忽然と 消える Q で ないかと 云 ふ樣な 事を考 へ た 事 もお る"
暗闇 阪を 下りつ めた 角に 荒物屋が ある〕 此店は 丁度 自分が 今 C 處に 移る 少し 前に 新しく 出来た
さう である。 毎日 通り 掛 りに 店 Q 樣も 見れば、 乂阪の 方に 開いた 裏 nQ 竹垣から 家內 の摸樣 もい
つと なく 知られる。 主人 はもう 五十 を 越した、 人の 好 ささうな 男で あるが、 主婦 は 之れ も 五十 近
所で、 皮膚の 蒼 黄色い 何處 となく 險の あるい やな 顏 だと 始め 見た 時から 思った。 主人 夫婦の 外に
は 二十 一 ニニ Q 息子ら しい 弱さうな 脊の 高い 男と、 それから いつも 銀杏 返しに 結うた 十八 九の 娘と、
外 に は 眞黑な 猫が 居る やうで あつ た。 亭主と 息子 は 時 々店の 品物に 溜ま ろ 街道 の 塵 を はた いて 居
る。 主婦 や 娘は臺 所で 立 働いて 居る の を 裏口の 方から 見かける 事が あるが、 ー體 に何處 となく 陰
氣な 此家內 のさ ま は、 日を經 るに 從 うて 自分の 眼に 映る。 主婦 は 時々 鉢卷 をして 髮を亂 して、 如
何にも 苦し さう に 洗濯な どして 居る 事が ある。 流し元で 器 皿 を 洗って 居る 娘の 淋しい 額 はいつ で
も 3® つて 居る 樣に思 はれた。
一 一三 ヶ月 程た つて 後 息子の 額が 店に 見えぬ やうに なつ て、 店の 塵 を拂ふ 亭主 は 前よりも 忙 がし
102
語 物 り もや
氣に兑 えたが、 それでも いつも 同じ やうな 柔和な 顏 つきで、 此男ハ みは 裏 木 E に 落つ る 梧葉の 秋
も 知らぬ 樣 であった。
やもり はもう 見えぬ 様になった。 冬が 容捨 もな く 迫って 來て木 枯が吹 募る 或 夜、 散歩の 歸り途
に 暗闇 阪 近くな つた 時、 自分の 數間前 を 肩 を すぼめて 俯向いて 行く 銀杏 返しの 女が ある。 大抵の
店 は 早く 仕舞つ て、 寂れた 町に. 渦 卷き立 つ 砂 ほこ リ の 中 を 小き ざみ に 行く 後 姿が 非常 に 心細げ に
見えた。 向 ふから 來か \ つた 老婆と すれちがった 時、 二人 は 急に 立 止って、. 老婆の 方から、 「ホ
1、 しばらくだった ね、 もう 少し はい、 かえ」 と 聞く。 振りむ いたと き 見る と 荒物屋の 娘で あつ
た。 淋しい 笑を片 頼に 見せて、 消 入ろ 樣な聲 で 何 か 云って 居る 様で あつたが 凄まじい 木枯が 打消
してし まって、 老婆の 「ホ ー」 と 云った 寒さうな 聲と、 娘の 淋しかった 笑顔と は 何 かなしに 自分
の 心に しみ 込む 様であった。 暗闇 阪の 街燈 は木枯 の 中に 心細く 瞬 い て 居た。
翌る 年の 春、 上野の 花が 散って 仕舞った 頃、 或 夜 膳 を 下げに 來た 宿の 主婦の 問 はす 語りに、 阪
の 下の 荒物屋の 娘が 亡くなつ たと 云 ふ 話 をした。 今日 葬式が 濟ん だと 云 ふ。 氣 立の 優しい よい 娘
であった が、 可哀相に お袋が 邪麼 で、 折角 夫婦仲の よかった 養子 を離緣 した。 一 體に 病身で あつ
た 娘 は、 其 後段々 に 弱くな つて、 とう. (- 廿歲で こんな 事に なった と 話して 聞かせた。 自分 は少
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し 前に 上野で 此 娘に 會 うたこと を 思 ひ 出した。 其 時 は 隣の 菓子屋の 主婦と 子供 を 二三 人 連れて、
花吹雪の 竹の 臺を步 いて 居た。 橫顏は 著しく 瘦 せて il 居た が、 やがて 死ぬ 人と も 見えなかった の
である。
自分が 年中で 一番 厭な 時候が 再び 來て 暗闇 阪には 又 やもり を 見る やうに なった。 或 夜 荒物屋の
裏 を 通ったら、 雨戶を 明け 放して 明るい 座敷が 見える。 高く 釣った 蚊屋の 中に しょんぼり 坐って
居る の は 年と つた 主婦で、 亂 れた髮 に鉢卷 をして 重い 病苦に 惱 むらしい。 亭主 は 其 傍に 坐って 背
でも 撫で、 居る け は ひで ある。 蚊屋の 裾に は黑 猫が 顏を 洗つ て 居る。
やもりと 荒物屋に は 何の 緣 もない が、 何物 か を 祝 ふ 様な 此阪の やもり を 行き 通りに 見、 打ち 續
く 荒物屋の 不幸 を 見聞きす るに つけて、 恐ろしい {4^ 想が 悪夢の やうに 心 を 襲 ふ。 黑, すんだ 血潮の
色の 幻の 中に、 病 女の 顏ゃ、 死んだ 娘の 顏ゃ、 十 年 昔のお 房の 額が、 呀の息 を 吹く やもりの 姿と
ー緖に 巴の やうに ぐる/ \ めぐる。
二三 日經て 後の 夕方、 荒物屋の 座敷に は 隣家の 誰れ 彼れ が 大勢 集って 酒 を 酌んで 居た。 疊屋も
來て 居る、 八百屋の 額 も 見える。 あかるい ラム プの光 は 人々 の 赤い 顔に 映えて 何となく 陽 氣に見
える。 臺 所では 隣 Q 菓子屋の 主婦が 忙が しさう に 立 働いて 居る。 知らぬ 人が 見たら 祝 ひの 酒宴と
104
諭り もや
も 見える だら う。 しかし 病める 此 家の 主婦 は 前夜に 死んだ ので ある。 いま はと 云 ふ 時に、 死んだ
娘の 名 を 呼んだ とも 云 ふ。
養子に 離れ、 娘に も 妻に も 取り 淺 されて、 今 は 形影 相 弔す るば かり Q 主人 は、 他所 目に は 一向
悲し さう にも 見えす、 相 變らす 店の 塵 を はたいて 居る。 臺 所の 方 は 近所の 者な どが 交る く 世話
をして 居る やうであった。 それから 間もなく 新しい 女が 店に 坐る 様になった。 下宿の 主婦 は、 荒
物 屋には 若い 好い 後妻が 來 たと 喜んで 話した。 肉 分 も 新しい 主婦の 晴れ やかな 顏を 見て、 何とな
く此 店に 一 樓の 明るい 光が さす やうに 思うた。
今年の 夏、 荒物屋に は 幼い 可愛い 顔が 一 っ增 した。 心よ く 晴れた 夕方な ど、 亭主 は 此の 幼兒を
大事 さう に 抱いて 店先 を あちこちして 居る。 近所の ぉ內 儀さん などが 通りが、 りに 兒を あやす と、
嬉し さうな 色が 父親の 柔和な 顔に 漲る。 女房 は 店で 團扇 をつ かひながら 樂 しげに 此樣を 見て 居る。
涼しい 風 は 店の 灯 を 吹き、 軒に 吊した 籠 や 箒 や ラム プの笠 を 吹き、 見て 過ぐ る 自分の 胸に も 吹き
入る。
,;H 分の 境遇に は 其 後 何の 變り もない。 雨が 降る と 風呂に 行く。 暗 闇 阪 C 街燈に は 今でも やもり
が 居る が、 元の やうな 空想 はもう 起らぬ、 小さな 細長い 黑影は 平和な 灯影に 眠って 居る 樣に思 は
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れ るので ある。 (明治 四十 年 十月、 ホ卜ト ギス)
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書 落 カ子 障
障子の 落 書
平 一 は 今朝 妹と 姪と が 國へ歸 るの を 新橋 迄 見送って 後、 なんだか 重荷 を 下した 様な 心 持に なつ
て 上野 行の 電車に 乘 つて 居る ので ある。 腰掛の 一番 後の 片隅に 寄り か、 つて 入口の 脇の ガラス 窓
に 肱 を もたせ、 外套の 襟の 中に 埋る やうに なって 茫然と 往來を 眺めながら、 考 へる ともなく 此間
屮の出 來事を 思 ひ 出して 居る。
無病 息災 を賫物 の やうに して 居た 妹婿の 吉 田が 思 ひがけない 重患に 罹って 病院に は ひる。 妹 は
かよわい 身 一 つで 病人の 看護 もせねば ならす 世話の やける 姪 を か、 へて 家 內の用 もせねば ならす、
見兼ねる やうな 窮境 を鄕 里に 報じて やつ て も 近親の 者 等 は 案外 冷淡で、 手紙で はいろ く 體の好
い 事 を 云って 来ても 誰 一 人 上京して 世話 をす る もの はない。 もとより 鄕 里の 事情 も 知らぬ ではな
いが 餘 りに 薄情 だと 思つ て ; 時 は ひどく 憤慨し 人非人の 樣に 篤つ て も 見た。 時には 此れ も 畢竟 妹 W
夫婦が あんまり 意氣 地がない から 親類 迄が 馬鹿にす るの だと 獨 りで 怒つ て 見て, どうで もなる が
い、 など \棄 鉢な 事 を考へ る 事 もあった がさて 病人の 賴み少 い 有樣を 見聞き、 妹が うら 若い 胸に
大きな 心配 を 抱いて 途方に くれながら も 一 生 懸命に 立 働いて 居る の を 見る と、 非常に 可哀相に な
つて、 役所の 行き 歸 りに は 立ち寄って 何彼と 世話 もし 慰めても やる。 妻と 下女と を 交る/ \ 手傳
にやって 居た が、 立 入って 世話して 居る と 又 瘤に さはる 事が 出来て、 罪 もない 妹に 常り ちらす。
しかし 宅へ 歸っ て考 へる とそれ が 非常に 氣の 毒に なって 矢も榍 もた まらなくなる。 こんな 工合で
不愉快な 日 を 送って 居る 內に 病人 は 次第に 惡く なって とう/ \> 亡くなって しまった。 病院から 引
取って 形ば かりで も 葬式 をす ませ、 妹と 姪と を 自宅に 引取る 迄の 苦勞を 今更の やうに 思 ひ 浮べ て
兑る。
殺風景な 病室 の 粗末な 寢臺 の 上で 最期 G 息 を 引 いた 人の 面影 を 忘れた ので もない、 秋雨の ふる
日に 燒 場へ 行った 時の 佗しい 光景 を 思 ひ 起さぬ でもない が、 今の 平 一 の 心 持に は それが 丁度 覺め
たばかりの 宵の 惡夢 の 様に 思 はれる G である。
妹 を 引取って 後 も、 鄕 里と Q 交涉 やら 亡き人の 後始末 やらに 忙殺されて、 過ぎた 苦痛 を 味 ふ 事
は 勿論、 妹 や 姪の 行末な ど G 事 も ゆる. (-考 へる 程 0 暇はなかった。 妻と 下女と で 靜に暮 して 居
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書 落の 子 障
た處へ 急に 二人 も增 したの みなら ャ、 娃 はい たづら^ りの 年頃で はあり、 家內は 始終 ゴタ す
るば かりで 殆んど 何事 も 手に つかぬ やうな 有様であった。 それが どうやら 今日 迄で 一先 づ 片付い
て 妹 は 兎も角 國の 親類で 引取る 事に なった" それで 今朝 汽車が 出て しまって 改札口 へ 引返す と 同
時に、 なんだか 氣拔 がした 様に、 プラット フォ ー ム の 踏 心 も輕く 停車場 を 出る と { 仝 はよ く 晴れて
快い 日影 を 隱す雲 もない。 久し 振に- 大氣 のよ い 日曜で ある。 宅へ 歸 つて どうす ると 云 ふ あても な
いので、 銀座 通り を ぶら/ \> 歩き、 大店 Q ガラ ス 窓の 屮を靦 いて 見たり 雜誌屋 の 店先 を あさって
見たり、 しばらく は 殆んど 何事 も 忘れて おた。 京 橋から 電車に 乘 つて 此の 片隅へ 腰 を 下してから
始めて 今朝の 別れ を 思 ひ 起し、 それから それと 此 間中の 事 を 繰返して 見る。 薄情 冷酷と 云 ふで は
ない が、 苦い 思 や 鋭い 悲も 一 日經 てば 一 n だけの 霞が か、 る。 今 電車の 窓から 日曜 Q 街の 人通り
をの どかに 見下して 居る 刻下の 心 持 は 只 自分が 一 通りの 義務 を 果してし まった、 此 間中からの 仕
事が 一 段落をっげたと云ふだけの單純な滿足が心の底に動ぃて居る^Mじ、 過去の 憂苦 も 行末の 心
配 も吉野 紙を距 てた 繪 ぐら ゐに思 はれて、 只 何となく 寬 ろいだ 心 持に なって 居る。
すぐ 向 ふの 腰掛に は會 社員ら しい 中年の 夫婦が 十 歳 位の 可愛い 男の子 を 連れて 大方 團子 坂へ で
も 行く の だら う。 平 一は 此<;1 ほ 社員ら しい 男 を何處 かで 見た 樣に 思った がつ ひ 思 ひ 出せない、 向 ふ
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でも 時々 こちらの 顏を 見る c 細君 Q 方 は 子供の 帽子 を氣 にして 直して 居る が、 子供 は义 すぐに 1:
彌陀 にしゃく り 上げる" 子供の 顔 はよ く兩 親に 似て 居る、 二人 C 丸で もがった 容貌が 其兒の 愛ら
しい 顔の 中です つかり 融和され てし まって どれ だけが 父親、 どれ だけが 母親のと 見 分 はっかぬ。
兒 Q 顔 を 見 て 後 に 兩親を 見 くらべ ると まるでち がった 二つの 顏 がどう や ら 似通 つて 見える のが 不
思議で ある。 姪 は 餘り兩 親に は 似ないで 却ってよ く 平 一 に似て 居る と 妹が 云った 事 も 思 ひ 出した。
妹婿 は 日曜 杯に はよ く家內 連れで 方々 へ 遊びに 出た。 達者で 居たら 今日 あたり は 屹度 團子 坂へ で
も 行って 居る だら うと 思 ふ。 妹 は 平 一が 日曜で も 家に 籠って 讀 I 曰して 居る の を 見て、 兄さん は ど
うして さう 出 嫌 ひだらう、 子供 だって あるで はなし、 姊 さんに も 時々 は 外のお 氣を吸 はせ て 上げ
るが い 、なと 上 K つた 事, ある。 こんな 事 を 思 ひ 出して は 無意味に 微笑して 居る。
向 ふ 0 子^ づれ は須田 町で 下りた。 其 跡へ は 大きな 革袍を 抱へ た 爺と 美術 學 校の 生徒が 乘 つて
其 前へ は滿 員の 客が 立ち塞が つてし まふ。 窮屈 さと 蒸された 人 Q 氣息 とで 苦しくな つた。 上野へ
着く の を 待ち兼ねて 下りる。 山 內へ向 ふ人數 につれ て ぶら 歩く。 ffi 洋 人を乘 せた 自動車が け
た、 ましく 馳け拔 ける 向 ふから 紙細工の 菊 を 帽子に 插 した 手代ら しい 二三 人 連の 自轉 車が 來る。
乎に/ \ 紅葉の 枝 を さげた 女學生 C 一群が 目につく。 博 M は 食の 跡 は;、 卞 取り崩されて 居る が、 も
110
畲 落の 子 障
と G ー號 館から 四號 館の 邊は、 閉鎖した 儘で 殘 つて 居る。 壁 はしみ に 汚れ、 明り 取りの 窓 硝子 は
處々 破れ 落ち か、 つて 煤けて 居る。 大方 葉 を ふるうた 櫻の 根に は 取りく づ した 木材が 亂雜に 積み
上げられて、 壁土が. HI く 散らばった 上に は 落葉が 亂れて 居る。 模造 日本 橋 は 跡 方 も なくなって 兩
側の 土 堤 も 半ば 崩れた の を 子供 等が 驅け 上り 驅け 下りて 遊んで 居る。 觀覽車 も 今は閬 として 鐵骨
のべ ンキも 剝げて 赤鏽が 吹き、 土臺 のた.^ き は 破れ こぼちて コ ンクリ ー トの 砂利が 喻み 出して 居
る。 殺風景と 云 ふより は 只 何となく そ 2^ ろに 荒れ果てた 景色で ある。
平 一 は 今年の 夏 妹 夫婦と 姪と で 夜の 會 場へ 遊びに 來た 事が あった。 姪の 望む ま&に 一同で 觀覽
車に 乘り 高い 杉の 梢の 夜風に 吹かれた。 あの 時の 樂隊 の騷 がしい 喇^の はやし はま だ 耳に 殘 つて
居る。 そこらの 氷 店へ は ひって 休んだ 時には、 森の 中に あ ふる、 人影が ちらついて、 赤い 灯ゃ靑
い 旗 を 吹く 風 も 涼しく、 妹婿が いつもの 地味な 浴衣 を くつろげ 姪にから かひながら ラ ムネ Q 玉 を
拔 いて 居た 姿が ありく 浮ぶ。 あの 時の 水 店の 跡な どももう たしかに 其 處 とも 分らぬ。 平 一 は 過
ぎた 一 夜の 事 を さながらに 一 幅の 畫の樣 に 心に 描いて 見る。
圖 逢曰 館の 前から 上野 も 奥へ 廻る と 人通り は少 い。 森の 梢に 群れて 居た 鸦 C 一 羽 立ち 二 羽 立つ 羽
音が 淋しい 音 を 空に 引く。 今更ら しく 死んだ 人 を 悲しむ ので もな く 妹 C 不幸 を 女々 しく 悔 むので
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もない が、 朝に 晩に 絶 間の ない 煩に 追 はれて 固く 乾いた 胸 C 中が 今日 C 小春 C 日影に 解けて 流れ
る樣 に、 何とい ふ 意味 Q ない 悲哀の 影が ゆるんだ 平 一 の 心の奥底に 動く G であった」
宅へ 歸 つて 見る と 妻 は 用達しに 出たら しい。 下女 は 一 寸出迎 へたが すぐ 勝手へ 引 込んで 音 もな
い。 今朝 迄 あんなに 騒々 しかった 家內 はしん として 餘 りに 靜 である。 平 一は 緣 側に 立った ま、 外
套 も^が す、 庭の 杉垣に i^- い 日光 を 見て 居た が、 突然 譯の 分らぬ 淋し さに 襲 はれて 座敷へ は ひつ
た。 机の 前に 坐って 傍 C 障子 を 見る と、 姪が いつ Q 間に か 落 書した ので あらう、 筆太に 塗りつ け
た覺 束ない 人形 Q 鎗が、 おどけた 額の 横から 兩手を 擴げて 居る。 何とい ふ 罪のない 繪 だら うとし
ばらく 眺めて 居た が、 名狀の 出来ぬ 暗愁が 胸に こみあげて 來て、 外套の かくしに 入れた ま. -の拳
を 握りし めて 强く 下臂 をかん だ。
程近い 踏切 を 過ぎる 汽享の 響が して 义 もとの 靜さ にかへ る。 妹 等 はもう 何 處ら迄 行った かと 思
つて 手近い 旅行 案內を 取り上げて みた。 ハ 明治 四十 一年 一月、 ホトト ギス)
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人 利 太 供
今日 七 軒 町 迄 用達しに 出掛けた 歸 りに 久し振りで 根津の 藍染 町 を 通った。 親友の 黑 田が 先年 迄
下宿して 居た 荒物屋の 前 を 通った 時、 二階の 擁 干に 青い 汚れた 毛布が 干して あって、 障子の 少し
開いた 中に 皴く ちゃに 吊した 袴が 見えて 居た" なんだかな つかしい やうな 氣 がした。 黑田 が此處
に 居た の はま だ學 校に 居た 頃からで、 自分 は 殆んど 毎日の やうに 出 人した から 主婦と も 古い 馴染
では あるが、 黑 田が 居 なくなつ てから は 妙に 疎くな つてし まって、 今日 も 店に 人の 居なかった の
を 却って 仕 合せに 聲も かけすに 通り過ぎた。 併し 此 家の 二階 は 何となくな つかしい、 昔の 香が す
る。 二階と 言って 別に 眺望が 佳い ので もなければ、 虚 敷が 綺麗 だとい ふ譯 でもない。 前に はコケ
ラ葺 や、 古い 瓦屋根に 草の 茂った 貸 長屋が 不規則に 並んで、 其 向 ふに は 洗濯屋の 物干が 美しい 日
の 服界を 遮ぎ る。 右 Q 方に 少し 許り 穴 ェ 地が あって、 其の 眞 上に 向 ヶ岡 c,w 宿舍が 聳えて 見える。
春の 頃な ど 夕日が 本 鄕臺に 沈んで 赤い 空に 此の 高い 建物が 紫色に 浮き出して 見える 時な ど は、 之
れ がー つの 眺めに なった 位の ものである。 しかし 間近く 上野 を ひかへ て 居る だけに、 何處か 明る
い 花やかな 處 もあった。 花の 時分な どになる と 何となく 春の どよ みが 森の に 聞え て 窓の 下 を 美
しい 人の 群が 通る 事 もあった。 欄干に もたれて 何 かしんみ りした 話で もして 居る 時、 程近い 時の
鐘が 重々 しいうな り を 傅へ/^ て 遠くに 消える こと もあった。
一 體黑 W は 子供の 時分から 逆境に-育って 隨分 苦しい 思 ひ をして 來た男 だけに 世 問に 對 する 考へ
も ふけて 居て、 深い 眼の 底から 世の中 を 横に 睨んだ 様な 處 があった。 觀 察の 鋭い そしてい つも 物
の 暗 面 を 見たがる 癖が ある ので、 人から は 寧ろ 憚 かられて 居た 爲か、 平生 親しく 往来す る 友も少
かった。 其の ひねくれた 樣な處 が 妙に 自分と 氣が 合った の も 不思議で ある。 自分 はどう かかう か
世間 並の 坊ちゃんで 成人し、 黑 田の 様な 苦 勞の味 をな めた 事 もない。 黑 田の 昔話 を 小說の 樣な氣
で 聞いて 居た。 月々 鄕 里から 學資を 貰って 金の 心配 もな し、 此上 氣樂な 境遇はなかった 害で ある
が、 若い 心に は氣樂 無事 だけで は 物足りなかった。 きまり 切った 日々 C 課業 をして 暇な時 間 を 無
意味に 過す と 云 ふ 様な 事が 寧ろ 堪へ 難い 苦痛であった。 唯 何 かしら 絶え. や 刺戟が 欲しい。 快樂と
か 苦痛と か 名の 付く 樣な もので なく、 何んだ か 分らぬ:::: 的 物 を 遠い 霞の 奥に 望んで、 それ をつ か
114
人 利 太 伊
まへ ようつ かまへ ようとして 居た。 小說 を讀ん だり 白馬 會を 見に 行ったり 义昔 樂會を 聞きに 行つ
たりして 居る 內には 求めて 居る 物に 近づいた 樣な氣 がする 事 もあった が、 つ い 眼 Q 前の 物に 手 Q
届かぬ 樣な悶 かしい 感じが 殘る 許りで ある。 こんな 事 を 話す と黑田 はいつ も 快く 笑って 「靑 春の
贅澤 J は 出来る 時に して 藍く さと: 一 =11 つた。 半日 も!^ 宿に 籠って 厭きた 窒内、 厭きた 庭 を 見て
居る と堪 へられ なくなって 飛 出す。 黑 ffl を 誘うて 當も なく 歩く,) > 咲く 花に 人の 集る 處を 廻ったり
殊更に 淋しい 墓場 杯 を 尋ね 歩いたり する。 黑 W は 之れ を 「浮世の. 5?」 を かいで 歩く の だと: W つて
居た。 一緒に 歩いて 居る と、 見る 物 聞く 物黑 田が 例 C 奇警な 觀察を 下す のでつ まらぬ 物が 生きて
來る。 途上 Q 人 は 大きな 小說 中の 人物に なって 路傍 C 石塊に も 意味が 出來 る。 君 は文擧 者に なつ
たらい 、だら うと 自分 は 言った 事 も あるが、 黑田は 醫科を やって 居た。
あの 頃よ く 話の種に なった 伊太利 人が ある。 名をヂ ュセ ッボ. ルツ サナ とかいって、 黑 田の 宿
の 裏手に 小さな 家 を 借りて 何處 かの 語學 校と かへ 通って 居た。 細君 は 日本人で 子供が 二人、 末の
はま だほん の 赤ん坊であった。 下女 も 置かす に、 W 素と 云 ふより は 寧ろ 極めて 賤 しい 暮し をして
居た。 日本へ 來て 居る 外 画人に は 珍しい ド 等な 暮し をして 居た が、 しかし 月給 は 可也 澤 山に 取つ
て 居る とい ふ 噂であった。 H 本へ 来て 居る の は 金 を こしら へる 爲 めだから、 なんでも 出來る だけ
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儉約 する Q です と 彼. HI 身 入 に^した さう である。
黑 田のお た 二階の 緣 側に 立って 見る と、 ゾぉ 0 射 越し に 伊太利 人の 家の 庭から 緣側 が 見下 される „
一 一 あるかな し Q 庭に、 植木と いったら 拓 か 何 かの 見すぼらし いのが 一 株^の 陰に ある 許りで、
草花の 鉢 一つ さへ な. い。 今頃なら 霜 解 を 踏み荒した 土に 紙屑 ゃ布片 などが 淺猿 しく 散らばり へ ば
りついて 居る。 晴れた 日に は 庭 一面に おしめ や シャツの 様な 物 を 干す、 軒ドに は罐詰 C 殼 やら 横
緒の 切れた 泥塗れの 女 F 駄な どが ころがって 居る。 ..g の 日に は鎵 側に 乳母車が あがって、 古 下駄
が. ま 垂れに 濡れて 居る。 家の 中 迄 は 見えぬ がきた なさ は 想像が 出来る。 細君から して 隨分 此んな
事に は 無頓着な 人 だと 見える。 どうせ あんな 異人さん のお かみさんになる 位の 人 だからと 下宿の
主婦 は說 明して 居た さうな。 しかし 細君 は 極く 大人しい 好人物 だとい ふので 近所の 氣 受け は餘り
惡ぃ 方ではなかった らしい。
主人の ヂュ セッボ の 事 を 近所で はヂュ ー ちゃんと 呼んで 居た。 出入の 八百屋が 言 ひ 出してから
みんな ヂュ ー ちゃんと いふ 樣 になった さう である。 自分 は 折 々往来で 自轉 車に 乘 つて 行く の を 見
かけた 事が ある。 大きな からだ を 猫背に 曲げて 陰 氣な顏 をして いつでも 非常に 急いで 居る。 眉の
間に 深い 皺 をよ せ、 血眼に なつ て 行 手 を 見つめて 驅 けって 居る さま は餓 ゑた 熊廳が 小雀 を 追ふ樣
116
人 利 太 伊
だと 黑 田が 評した 事が ある。 休日な どに はよ く緣 側の 日向で 赤ん坊 をす かして 居る。 上衣 を晚ぃ
でシャ ッ ばかりの 胸に 子供 をシッ カリ 抱いて、 を かしな 聲を 出しながら 狹ぃ緣 側 を 何遍で も 行つ
たり 来たりす る。 そんな 時で も 恐ろしく 眞 面目で 沈 夢.^ で 一心 不亂 になって 居る 樣に 見える。 こち
らの 二階で 話し 聲 がして 居ても 少しも H も くれす、 根氣 よく 同じ 樣な聲 を 出して 子供 を ゆすぶつ
て 居る。 倂し 子供が 可愛くて ならぬ とい ふ 風で もない。 唯 一 心に 何事 かに 凝り固まって 世間の 風
が 何處を 吹く の も 知る 餘裕 がない といった 樣 である。 自分 は 此んな 場合 を 見かける となんだ か 可
笑し くも あり 叉氣の 毒な 氣 がした。 黑田は あれ は 此の世界に 金 を 溜める 以外 何物 もない 憐れな 男
だと 言って 居た。 五 厘 だけ 安いと いふので 石油の 罐 を自轉 車に ぶらさげ、 下 谷 方まで 買 ひに 出
かける とい ふ 事であった。 八百屋な どが 來 ると 自分で 臺 所へ 出かけて やかましく 値切り 小 切り を
する。 大根 を齒で 喰ひ缺 いて 見て 此れ はいけ ない と 云って 突 返したり する。 煮 焚の 事で も 細君に
はやらせないで 獨り で臺 所で 何 か ガチャ つかせ ながら や つ て 居た。
花 を 尋ねたり、 墓を訪 うたり、 美しい 夢ば かり 見て 居た あの 頃の. e: 分に は、 此の 伊太利 人 は 暗
い 黄泉の 闇に 荒 金 を 掘って 居る 亡者 か 何 かの 様に 思 はれた。 兎に角 一 種侮蔑の念^^抑へ る譯に行
かなかった。 日露 戰 ゆの 時分に は 何でも 露西亜の 方に 同情して 日本の 連捷を 呪-ふやうな 口吻が あ
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つたと かで 或は 露探ぢ やない かとい ふ 噂 も 立 つ た。 こんな 事で ひ どく 近所 屮 の 感 じをHli^^ くし た さ
うだが、 細君 Q 奵 人物と 子供の 可愛らしい Q とで 幾分 か 融和して 居たら しい。 子供 は 髮が黑 くて
色が^:くて美しぃ。 上の 男の子 は あの 顷 四つ 位で 名 はヱン リコと かいふ さう だが、 當り前 0 和服
を 着て 近所の 子供と 遊んで 居る G を 兌て は 混血 兒と思 はれぬ 様であった" 黑 m は 此兒を 大變に 可
愛が つて ェ ン チャンく と 親しんで 居た。 父親が 金 を こしら へ あげた 暁に 此兒の 運命 はどうなる
だら うかと 話し合った 事 も ある。
ヂュ セッボ Q 家 で 時なら ぬ-: 風が 起 つ て 隣家 の 耳 を 鼓 て させ る 事 も 珍しく ない。 アクセントの を
かしい 伊太利 人の 聲が 次第に 高くなる。 そんな 時 は 細君の こと をァ ナタ がくと 云 ふ聲が 特別に
耳 立って 聞え る。 嵐が 絕頂 になって、 おしま ひに 細君の 唆り 泣きが 聞え 出す と 与 6 に默 つてし まふ-
そして 赤ん坊 を 抱いて 下駄ば きで 庭へ 出る。 憤怒、 悲哀、 痛苦 を 一 まとめに した 様な 額 を 曇らせ
て、 不安ら しく 庭 を あちこち 歩き 廻る ので ある。 異鄕の 空に 語る 者 もない 淋し さ伦 しさから 氣ま
ぐれに 持へ た,; 1^ 庭に 憂き 雲が 立って 心が 騒ぐ Q だら う。 こんな 時には かたくなな ヂュ セ ッボの 心
も、 海 を 越えて 逄な 伊太利の 彼方、 オレン ヂの 花^く 野に 通うて 覉旅ひ 思が 動く の だら うと 思 ひ
やった 事 も ある。 細君 は 珍しい おとなしい 女で、 ロ喧 ましい 夫に か しづく 樣は 寧ろ 人の 同情 を ひ
118
人 利 太 伊
く 位で、 っひぞ 近所 なぞで 愚痴 を こぼした 事 もない。 從 つて 此 Q 變 つた (豕 庭の 成立に 就いても 細
君の 元の 身分に 就いても、 何事 も 確な 事 は 聞かれなかった。 今は黑 W も 地方へ 行って しまって 伊
太 利 人 Q 話 をす る 機會も 絶えた。
こんな 事 を 色々 思 ひ 出して 歸 つて 來 ると 宅の きたない のが 今更の 樣に ほ に 付く。 よごれた 疊破
れた 建具 を 見 ま はして 居た が、 急に 思 ひついて 端 書 を 書いた、 ク、 し 振りで 黑 田に こんな 事 を 書い
て やった。
…… 東京 は 雪が ふった。 千駄 木の 泥濘 はま だ 乾かぬ。 之れ が 乾く と 西風が 砂 を 捲く。 此 泥に 重
い 靴 を 引きす り、 此の 西風に 逆 ふだけ でも 頰が 落ちて 眼が 血走る。 東京 はせ ちがら い。 君 は 田
舍が返 屈 だと 言って 来た。 此頃は 定めて 益、、 肥ったら う。 僕 は 毎日 同じ 帽子 同じ 洋服で 同じ 事
を やりに 出て 同じ 刻限に 家に 歸 つて 食って 寢る。 「靑 春の 贅澤」 はもう 止した。 「浮世 Q 匂」
を かぐ 暇 もない。 障子 は 風が もり、 疊は毛 立って 居る。 霜柱に あれた 庭 を 飾る も Q は 子供の 糨
碟 位な もの だ。 此 頃の 僕 は 何だか 段々 に變 つて 來る。 美しい 物の 影が 次第に 心から 消えて 行く。
金が. ほしくなる。 かって 二階から 見下した ヂュ セッポ にいつ Q 間に か 似て 來る やう だ。 墮落 か、
向上 か。 どち だか 分らない。 三月 十四日
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ベ ンで 細字で 考 へ./ \- 書いて しまったの を 懐に して 表の ポストに 人れ に 出た。 そして 今 書いた
事 を 心で もう 一遍 繰り返しながら、 此れ を 護んだ 時に 黑 田の 苦い 顔に 浮ぶべき 微笑 を 胸に 描いた。
(明治 四十 一 年 四月、 ホトト ギス)
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いくつ 位 Q 時であった かたし かに は覺 えぬ が、 自分が 小さい 時 0 事で ある。 宅の 前 を 流れて ゐ
る 濁った 堀川に 沿うて 半 町 位 上る と 川 は 左に折れて 舊 城の 裾の 茂みに 分け入る。 その 被に 向うた
此方の 岸に 廣ぃ空 地が あった。 維新 前に は 藩 Q 調練 場であった のが、 其 頃は縣 まの 所屬 になった
ま、 で 荒 地に なって ゐた。 一面の 砂地に 雜 草が 所 まだらに 生 ひ 茂り 處々 晝顏が 人 あいて ゐた。 近邊
の 子供 は 此處を 好い 遊び場 所に して 柵 G 破れ か ら 出入 して 居た が 咎める 者 もなかつ た。 夏 Q 夕方
は銘々 に 長い 竹竿 を 肩に して 空地へ 出かける。 何處 からと もな く澤 山の 蝙蝠が 蚊 を^ ひに 出て、
空 を 低く 飛び か はすの を、 竹竿 を 振うて は 叩き 落す Q である。 風の ない 煙った 樣な 宵闇に、 蝙幅
を 呼ぶ 聲が對 岸の 城の 石垣に 反響して 暗い 川上に 消えて 行く。 「蝙蝠 來ぃ. - 水吞 ましよ。 そっち
の 水に がい ぞ」 と あちらこちらに 聲 がして 時々 竹竿の {4- を 切る 力ない 音が ヒ ュ ー と 鳴って ゐる。
賑やかな やうで 云 ひ 知らぬ 淋し さが 籠って ゐる。 蝙 幅の 出さ かるの は 宵の口で、 遲 くなる に從っ
て 一 つ 減り 二つ 減り 何處 となく 消える 樣に居 なくなつ てし まふ。 すると 子供 等 も 散り/ \ に歸っ
て 行く。 後 はしん として 死んだ 樣な空 氣が廣 場 を 鎖して しま ふので ある。 いっか 塒に 迷うた 蝈蝠
を 追うて 荒 地の 隅 迄 行った が、 ふと 氣が 付いて 見る と あたりに は 誰も 居ぬ。 仲間 も歸 つた か聲も
せぬ。 川 向 ふ を 見 る と 城の 石垣の 上 に鬆 然と 茂 つ た禝が 闇の 空 に 物 恐 ろしく 擴 がって 汀の 茂み は
眞黑に 眠って 25 る。 足 を あげる と 草の 露が ひやり とする。 名狀の 出來ぬ 暗い 恐ろしい 感じに 襲 は
れて 夢中に^ 出して 歸っ て 來た事 もあった。 廣 場の 片隅に 高く 小 砂 を 盛 上げた 土 堤の 様な ものが
あった。 自分 等 は 此れ を 天文 臺と 名け てゐ たが、 實は 昔の 射的場の 玉 避けの 迹 であった ので 時々
砂 の 中から 長 い 紛玉 を 掘り出す 事が あ つた。 年上の 子供 は 此の 砂山に ょぢ登 つて はすべ り 落ち る。
時々 戰爭 ごっこ もやった。 賊軍が 犬 文臺の 上に 軍旗 を 守って 居る と 官軍が 攻め 登る。 自分 もこの
軍勢の 中に 加 はる 0 であった が、 どうしても 此の 砂山の 頂き 迄 登る 事が 出来なかった。 いつもよ
く 自分 を いぢめ た 年上の 者 等 は 苦 もな く 駅け 上って 上から 弱蟲と 嘲る。 「早く 登って 來ぃ、 此處
122
語 物 花
から 東京 力 見える よ」 など、 云って 笑った。 口惜しい ので 懸命に 登り かける と、 砂 は 足元から 崩
れ、 力 草と 賴む 晝顏は 脆く ちぎれて すべりおちる。 砂山の 上から 賊軍が 手 を 打って 笑うた。 しか
しどうしても 登り 度い とい ふ 一念 は 幼い 胸に 巢を くうた。 或 時 は 夢に 此の 天文 臺に 登り かけて ど
うしても 登れす、 藻搔 いて 泣き、 母に 起され 蒲團の 上に 坐って まだ 泣いた 事 さへ あった。 「お前
はま だ 小さい から 登れない が、 今に 大きくな つたら 登れます よ」 と 母が 慰めて くれた。 其 後 自分
の 一家 は國を 離れて 都へ 出た。 執 清の ない?;^ 供 心に は 故 鄕の事 は 次第に 消えて 晝 顔の く 天文 臺
もた V 夢の やうな 影 を 留める ばかりであった。 一 一十 年後の 今日 故 鄕へ歸 つて 見る と 此の 廣 場に は
町 の 小學 校が 立派に 立 つて ゐる。 大きくな つ たら 登れ る と 思 つ た: 大文臺 の 妙 山 は 取り崩されても
う 影 もない。 たぐ 昔の 傣を 留めて なつかし いのは 放課後の 庭に 遊んで 居る 子供 等の 勇まし さと、
柵 の 根元 にかれ ぐに ゆ、 い た晝顏 の 花で ある。
二 月見草
高等. 畢 校の 寄宿 舍 に は ひった 夏の 末の 事で ある。 明け^いと いふの は 寄宿 舍 の 二階に 寢て 始め
て覺 えた 1 一一 口 葉で ある。 寢 相の 惡ぃ 隣の 男に 踏みつけられて 服 を さます と、 時计は a 時 過ぎた ばか ^
り だのに、 夜 はしら/ \- と 半分 上げた 寢室 Q ガラス 窓に 明け か,^ つて、 覺め 切らぬ 眼に は 釣り 並
ベた 蚊帳の 新しい Q や 古い 萌黄色が 夢 Q やうで ある。 窓の 下框 には扁 柏の 高い 稍が 見えて、 其 上
に は 今眼覺 めた 様な 裏山が 観いて ゐる。 床 は 其 儘に、 そっと 拔け 出して 運動場へ 下りる と、 廣ぃ
芝生 は 露 を 浴びて、 素足につつ かけた 兵隊 靴 を-濡らす。 ばったが 驚いて 飛 出す 羽音 も 快い。 芝 原
の 圍りは 小 松原が 取り 卷 いて、 隅の 處々 に は 月見草が 人 孕、 き亂 れてゐ た。 其 中 を 踏み 散らして 廣ぃ
運動場 を „ 圍 りする 內に、 赤い 日影が 時計 臺を 染めて 賄 所の 井 1:: が 威勢よ く 軋り 始める ので あつ
た。 其 頃 或 夜 自分 は 妙な 夢を見た。 丁度 運動場の やうで、 もっと 廣ぃ 草原 Q 屮を朧 な 月光 を 浴び
て 現と もな く彷 Sii うて 居た。 淡い 夜霧が 草の葉 末に 下りて 1: 方 は iUi に. 5J まれた やうで ある。 何
處 ともなく 草花 Q やうな 香が する が 何 Q 匂と も 知れぬ。 足 許から ra 方に かけて 一面に 月見草 C 花
が t 、き 連なって ゐる。 自分と 並んで 一 人 若い 女が 歩いて 居る が、 世の 人と 思 はれぬ 蒼. C い 額の 輪
郭 に 月の 光 を 受けて 默 つて 歩いて 居 る。 薄 鼠色 の 着物 Q 長く 曳 い た 裾に は 矢 り 月見草が 美しく
染め出されて ゐた。 どうして こんな 夢を見た もの かそれ は今考 へても 分らぬ。 夢が 覺 めて 見る と
ガラス 窓が ほ Q かに.; r んで、 蟲の 音が 聞え てゐ た。 寢 汗が 出て 居て 胸が しぼる 様な 心 持であった G
起 き る ともなく: i£ を 離れ て 運動場 へ 下りて 月見草 の唤 いて ゐ る邊 を:^ 遍 と なく あ ち こちと 歩いた。
124
詰物 花
其 後 も 毎朝 の 様に 運動場 へ 出た が、 此れ迄 に 此 處を步 いた 時の 様な 爽快な 心 持 は しなくな つ た。
寧ろ 非常に 淋しい 感じば かりして、 其 頃から 自分 は 次第に 吾と 吾が 身 を 削る 様な、 憂 な {4! 想に
耽る やうに なって しまった。 自分が 不治の病 を 得た のも此 頃の 事であった。
三 栗 の 花
三年の 間 下宿して 居た 吉 住の 家 は黑髮 山の 麓 も 稍 奥まった 處 である。 (¥ の 後ろ は 狭い 裏庭で、
其 上 はもう すぐに 崖に なって 大木 Q 茂りが 蔽ひ 重なって ゐる。 傾く 年の 落葉 木實と 一緒に 鹎の鳴
聲も 軒端に 降らせた。 自分 Q 借りて ゐた離 室から 表 G 門へ の 出入に は 是非共 此 裏庭 を 通らねば な
らぬ" 庭に 臨んだ 座敷の 外れに 三疊敷 許りの 突き出た 小窒 があって、 洒落れ た 丸窓が あった。 此
處は 宿の 娘の 居間と 極って ゐて、 丸窓の 障子 は 夏も閉 ぢられ てあつた。 r 度此 部屋 Q 眞 上に 大き
な 栗の 木が あって、 夏 初の 試驗 前の 調べが 忙 がしくなる 頃になる と、 黄色い 房 紐 Q やうな 花を屋
根から 庭へ 一面に 降らせた。 落ちた 花 は 朽ち 腐れて 一種 甘い やうな 強い-^ 氣が小 庭に 充 ちる。 此
處 等に 多い 大きな 蜩が勢 ひの よい 羽 音を立て 、此れに 集まって 居る。 カ强ぃ 自然の 旺盛な 氣が腦
を 襲 ふやう に 思 はれた。 此 花の 散る 窓の 內には 内氣な 娘が 垂れ 籠め て 讀物ゃ 針仕事の 稽古 をして に
居る のであった。 自分が 此 家に はじめて 来た ころ はやう く 十四 五位で 桃 割に 結うた 額 髪 を 垂ら
せて ゐた。 色の 黑ぃ、 顏立も 美しい とい ふので はない が 眼の 涼しい 何處か 可愛 氣な兒 であった。
主人 夫婦の 間に は 年老っても 子が 無い ので、 親類の 子供 を 貰って 育て」 居た ので ある。 娘の 外に
大きな 三毛猫が るば かりで 寧ろ 淋しい 家庭であった。 自分 はいつ も 無 n な變 人と 思 はれて ゐた
位で、 宿の 者と 親しい 無駄話 をす る 事 も 滅多になければ、 娘に もやさし い 曾 葉 を かけた こと もな
かった。 毎日の 食事時に は此 娘が 駒下駄の 昔 を させて 迎 へに 来る。 土地の 訛った 言葉で 「御飯お
上がん なさい まっせ」 と 云 ひ 捨て k すた- 歸 つて 行く。 初めは ほんの 子供の やうに 思って ゐた
が 一 夏々々 歸 省して 來る; 母に、 何處 となく 大人び て來 るの が 自分の 眼に もよ く :13- えた。 卒業 試驗
の ii- の 或 日、 灯と もし 頃、 復習に も 飽きて 離 室 C 緣側へ 出たら 栗の 花の香 は 馴れた 身に もしむ 樣
であった。 主家の 前の 植 込の 中に 娘が. つぼい 着物に 赤い 帶を しめて 猫 を 抱いて 立って 居た。 自
分の 方 を 見て いつにない 顏を 赤く したら しい G が 薄暗い 巾に も 自分に 分った。 そして まともに 此
方 を 見つめて 不思議な 笑顔 を;^ したが、 物に 追 はれ \ ^もした 樣に 座敷の 方に 駔 込んで 行った。 其
夏 を 限りに 自分 は此 土地 を 去つ て 東京に 出た が、 翌年の 夏 初め 頃 殆ど 忘れて 居た 吉 住の 家から 手
紙が 屈いた. - 娘が 書いた も Q らしかった。 年賀 C 他に は 便り を 聞かせた 事 もなかつ たが、 どう W め
126
語滅
うた もの か、 細々 と 彼 地 Q 模様 を 知らせて よこした。 ^!;:分の元借りてゐた離窒は其後誰も下宿し
て 居ない さう である。 東京と いふ 處は 定めて 好い 處 であらう。 一 生に 一 度 は 行って 見たい とい ふ
やうな 事 も 書いて あった。 別に 何とい ふ 事 もない が何處 となく 艷 かし いのは 矢 張 若い 人の 筆 だか
ら であらう。 一番お しま ひに 栗の 花 も き 候。 やがて 散り 申 候と あった。 名前 は 母親の 名が ま 曰い
てあつた。 . •
四 凌 宵 花
小學 時代に 一番 嫌 ひな 學科は 算術であった。 いつでも 算術の 點 數が惡 いので 兩親は 心配して 中 •
學の 先生 を 頼んで 夏休み 屮 先生の 宅へ 習 ひに 行く 事に なった。 宅から 先生の 所 迄 は 四 五町 も ある。
宅の 裏門 を 出て 小川に 沿うて 少し 行く と 村 は づれへ 出る、 そこから 先生の 家の 高い 松が 近 邊の藁
屋根 ゃ植 込の 上に 聳えて 見える。 此れに 凌 宵 花が ド から 隙 間もなく 絡んで 美しい。 毎日 晝 前に 母
から 注意され ていやくながら 出て 行く。 裏の 小川に は 美しい 藻が 澄んだ水 底に うねり を 打って
搖 れてゐ る。 其 間 を小鲋 0 群が 白い 腹 を 光らせて 時々 通る。 子供 等が 丸裸の 背 や 胸に 泥 を 塗って
7
は 小川へ 入って ボ チヤく やって 居る。 附木 C 水 率 を-仕掛けて 居る も あれば、 崖^に 乘 つて 流 ^
れて 行く の も ある。 自分 は 羨し い 心 をお さ へ て 川 沿 ひの 岸の 草 をむ しり 乍ら 石盤 を か.^ へ て 先生
の 家へ 急ぐ。 寒竹の 生籬 をめ ぐらした 冠木門 を は ひると、 玄關の 脇の 评には 席 を. 敷き 並べた 上に
よく 繭 を 干して あった。 玄關 から 案 內をハ 乙 ふと 色 C 黑ぃ奧 さんが 出て 來て 「暑い のによう 御 精が
出ます ねえ」 といって 座敷へ 導く。 綺麗に 掃除の いた 庭に 臨んだ 緣惻 近く、 低い 机 を 出して く
れる" 先生が 出て 米て、 默 つて 床の間の 本棚から 算術の 例題 集 を 出して くれる。 横に 長い 黄表紙
で 太 版 刷の 古い 本であった。 「甲乙 一 一人の 旅人 あり、 甲 は 一時間 一 里 を 歩み 乙 は 一 里 半 を 歩む…
;」 といった 樣な題 を 讀んで 其 意味 を 講義して 聞かせて、 これ を やって 御覽 とい はれる。 先生 は
緣 側へ 出て 欠伸 をしたり 勝手 Q 方へ 行って 大きな 聲で 奥さんと 話 をしたり して 居る。 自分 は 其 問
題 を 前に 置いて 石盤の 上で 石筆 をコ ッく いはせ て考 へる。 敷 Q 緣側の 軒下に 投網が 釣り下げ
てあつて、 長 押の 様な ものに 釣竿が 澤 山掛けて ある。 何時間で 乙の 旅人が 甲 旅人に 追 ひ 着く か
とい ふ 事が どうしても 分らぬ、 考 へて 居る と 頭が 熱くなる、 汗が 坐って 居る 脚に にじみ 出て、 着
物の ひっつく のが 心 持が 悪い。 頭 を 抑へ て 庭 を 見る と、 笠 松の 高い 幹に は眞 赤な 凌 宵の 花が 熱さ
うに 唤 いてなる。 よい 時分に 先生が 出て 來て 「どう だ、 六ケ しいか、 ドレ」 といって 自分の 前へ
坐る"」 羅紗 切れ を 丸めた 石盤 拭きで 隅から隅まで 一度 拭いて そろく r 寧に 說 明して くれる。 恃
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語 物 花
時 わかった かくと 念 をお して 聞かれる が 大方 それが よく 分らぬ ので 妙に 悲しかった。 俯向い
て 居る と 水湊が 自然に 垂れ か.^ つて 來 るの を じっと 堪へ て 居る、 いよ/.. - 落ちさう になる と 思 切
つてす、 り 上げる、 これ も つらかった。 晝 飯時が 近くなる ので、 勝手の 方で は m- 鉢の 音が したり、
物 を燒く 句が したりす る。 腹の 減る の も つらかった。 繰り返して 敎 へて くれても、 結局 あまりよ
く は 分らぬ と 見る と、 先生 も 悲し さうな 聲を 少し 高く する ことがあった。 それが 又 妙に 悲し かつ
た。 「もうよ ろしい、 又 明日お いで」 と 云 はれる と 一 日の 務が鬼 も 角 も すんだ やうな 氣 がして 大
急ぎで 歸 つて 来た。 宅で は 何も 知らぬ 母が 色々 涼しい 御馳走 を こしら へて 待って 居て、 汗 だらけ
の顏を 冷水で 淸め、 ちゃほや される のが 又 妙に 悲しかった。
五 芭 蕉 の 花
晴れ 上って 急に 暑くな つた。 朝から 手紙 を 一通 書いた ばかりで 何 をす る元氣 もない。 何遍も 机
の 前へ 坐って 見る が、 ぢ きに 苦しくな つてつ いね そべ つてし まふ。 時々 涼しい 風が 來て 軒の ガラ
ス の 風鈴が 鳴る。 床の 前に は幌 蚊帳の 中に 俊坊が 顏を眞 赤に して 枕を脫 して うつむきに 寢て 居る。
緣 側へ 出て 見る と 庭 はもう 半分 陰に なって、 陰と 日向の 境 を 蟻が うろ して 入して 居る。 比
129
間 上田の 家から 貰って 來たダ ー リア はどうし たもの か 少し 芽 を 出し かけた 儘で 大きく ならぬ。 戶
袋の 前に 大きな 廣葉を 仲した 笆蕉の 中の 一 株に は 今年 花が-^ いた。 大きな 厚い 花瓣が 三つ 四つ 開
いた 許りで、 とうく 開き 切ら, f に 朽ちて しま ふの か、 もう 少し 萎び か、 つた やうで ある。 蟻が
二三 匹た かって 居る。 俊坊が 急に 泣き出し たから 覼 いて 見る と 蚊帳の 中に 坐って 手足 を 投げ出し
て 泣いて 居る。 勝手から 妻が 飛んで くる。 坊は 牛^の 壜を、 投げ出した 膝の 上で 自分に 抱へ て 乳
首から 呼吸 もっかす ごく,/ \飮 む。 淚で くしゃ. (- になった 眼で 兩 親の 顔 を 等分に 眺めながら 飮
んで 居る。 飮ん でし まふと 又 思 ひ 出した 樣に 泣き出す。 まだ 眼が 覺 めきらぬ と 見える。 妻 は俊坊
を 負ぶ つて 緣 側に 立つ。 「芭蕉の 花、 坊や 芭蕉の 花が^ きました よ、 それ、 大きな 花で せう、 實
が 生ります よ、 あの 實は 食べられない かしら。」 坊は 泣き止んで 芭蕉の 花 を 指して r モ、 く」
とい ふ。 「芭蕉 は 花 が^くと それき り 枯れて しま ふって 御 父ち やま、 本 當?」 「さうよ、 だが 人
間 は 花が かないでも 死んで 仕舞 ふね」 といったら 妻 は 「マ ァ」 といった きり 背 を ゆすぶって 居
る。 坊が眞 似 をして 「マ ァ」 とい ふ。 二人で 笑ったら 坊も 一緒に 笑った。 そして 又 芭蕉の 花 を 指
して r モ 、 く」 といった。
130
語 物 花
六 野 ■ 薔 僚
夏の 山路 を 旅した 時の 事で ある。 峠を越してから 急に 風が 絡え て 蒸し暑くな つた。 狭い 谷間に
沿うて 段々 に 並んだ 山 田の 緣を縫 ふ 小徑に は、 蜻蜓の 羽根が ぎら くして、 時々 蛇が 行 手から 這
ひ 出す。 谷 を 蔽ふ黑 すんだ 蒼 空に は 折々 白雲が 通り過ぎ るが、 それ は 只 あちこちの 峯に 藍色の 影
を 引いて 通る ばかりで ある。 咽喉が 渴 いて 堪へ 難い。 道端の 田の 緣に小 溝が 流れて ゐ るが、 金氣
を帶 びた 水の面 は 蒼い 皮 を 張って 鈍い 光 を 照り返して ゐる。 行く 內に、 片側の 茂みの 奥から 徑を
横って 田に 落つ る淸 水の 細い 流れ を 見つけた 時は譯 もな く 嬉しかった。 すぐに 草鞋の ま.^ 足 を 浸
したら 涼し さが 身にしみた。 道の 脇に 少し 分 入る と、 此處 だけ は 特別に 樫 ゃ播が こん もりと 黑く
茂って 居る。 苔は濕 つて 蟹が 這うて 居る。 崖から しみ 出る 水 は 美しい 羊齒の 葉末から 滴って 下の
岩の 窪みに たまり、 餘 つた 水 は 溢れて 苔の 下 をく ぐって 流れる。 小さい 竹 柄杓が 浮いた ま \ に t.
に 打 たれて 居る。 自分 は 柄: £ にか じりつく やうに して、 旨い 冷い はらわた にしむ 水 を 味うた。 少
し 離れた 崖の 下に 一 株の 大きな 野薔薇が あって 純白な 花が 唆き 亂れ てゐ る。 自分 は 近寄って 強い
薰りを 嗅いで 小さい 枝 を 折り 取った。 人の 氣は ひがす るので ふと 見る と、 今迄 ちっとも 氣が 付か
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なかった が、 茂みの 陰に 柴刈りの 女が 一 人 休んで 居た。 背負うた 柴を 崖に もたせて 脚胖の 足を投 2
3
げ 出した ま、 じっと 此方 を 見て 居た。 あまり 思 ひがけ もなかつ たので 驚いて 見返した。 繼ぎ はぎ
の 着物 は 裾 短 かで 繩の 帶を しめ て 居る。 白い 手拭 を 眉 深に かぶつ た 下から 黑髮が 額に 垂れ か k つ
て 居る。 思 ひも かけす 美しい 顏 であった。 都で は 見る ことの 出來ぬ 健全な 顔色 は 少し H に堯 けて
一層 美しい。 人に 臆せぬ 黑ぃ隨 で まともに 見られた 時、 自分 は 何んだ か 咎められ たやうな 氣 がし .
た。 思 はす 意氣 地の ない 御 辭儀を 一 つして 此處を 出た。 輝が 鳴いて 蒸し暑 さは 一 層 烈し い。 今 折
つて 來た 野薔薇 を かぎ 乍ら 二三 町 行く と、 向 ふから 柴を 負うた 若者が 1 人 上って 來た。 身の 丈に
餘る柴 を 負うての そりく あるいて 來た。 逞しい 赤黑ぃ 顔に 鉢卷 をき つくしめ て、 腰に は 研ぎす
ました 鎌が 光って 居る。 行 違 ふ 時に 「どうも 御 邪魔 さまで」 といって 自分の 顏を ちらと 見た。 し
ばらく して 振り返って 見たら、 若者 はもう 淸 水の 邊 近く 上って 居た が、 向 ふで も 板り かへ つて 此
方 を 見た。 自分 は 何と いふ 譯 なしに 手に 持つ て 居た 野薔薇 を 道端に 捨て &行 手の 淸水 へ と^ い で
歩いた。
七 常 山の 花
語 物 花
まだ 小學 校に 通った 頃、 n 比蟲を 集める 事が 友達 仲間で 流行った。 自分 も 母に ねだって 蚊帳の 破
れ たので 捕 蟲網を 作って 貰って、 土用の 日盛りに も 恐れす、 此れ を 肩に かけて 毎日の 樣に蟲 捕り
に 出かけた。 蝶 蛾 ゃ甲蟲 類の 一番 澤 山に 棲んで 居る 城 山の 中 を あちこちと 永い 日を暮 した。 二の
丸 三の 丸の 草原に は 珍しい 蝶 やばった が 夥しい。 少し 茂みに 入る と 樹木の 幹に さまぐ の 甲蟲が
見つかる。 玉蟲、 こがね 蟲、 米 搗蟲の 種類が かすく 居た。 强ぃ 草木の 香に むせながら、 胸 を を
どらせ ながら こ んな蟲 を ねらって 歩いた。 捕って 來た蟲 は 埶一湯 や 樟腦で 殺して 菓子 折 の 標本 箱へ
綺麗に 並べた。 さう して 此の 箱 0 數の增 すの が樂 しみであった。 蟲 捕りから 歸 つて 來 ると、 から
だは 汗 を 浴びた やうに なり、 顔 は 火の 様であった。 どうして あんなに 蟲 好きであった らうと 母が
今でも 昔話の 一 つに 數 へる。 年 を經て 面白い 事に も出會 うたが、 あの 頃 珍しい 蟲を 見付けて 捕へ
た 時の やうな 鋭い 喜び は 稀で ある。 今で も 城 山 の 奥の 茂み に 蒸 さ れた朽 木 の 香 を 思 ひ 出す 事が 出
來 るので ある。 いっか 城 山の すっと 据のぉ 濠に 臨んだ 暗い 茂みに は ひったら、 一 株の 大きな 常 山
木が あって 桃色が \ つた 花が 梢 を 一面に 蔽 うて 居た。 散った 花 は 風に ふかれて、 、汀に 朽ち 沈んだ
泥 船に 美しく 散らばって ゐた。 此樹の 幹 は處々 蟲の食 ひ 入った 穴が あって、 穴の 口に は 細い 木屑
が蟲の 糞と 共に 零れ か i つて 一種の 臭 氣が鼻 を 襲うた。 樹の 幹の 高い 11; に、 大きな 見事な 兜蟲が
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いかめしい 角 を 立て \止 まって 居る の を 見付けた 時 は 嬉しかった。 自分の 標本 箱に はま だ 蟲の
よいの が 一 つもなかった ので、 胸を鍚 かして 網 を 上げた。 少し 網が 届き 兼ね たがやう く 首尾よ
く 捕れた ので、 腰に つせ て 居た 蟲 籠に 急いで 入れて、 包み 切れぬ 喜び をいだ いて 森 を 出た。 三の
丸の 石段の 下迄來 ると、 向 ふから 美しい 蝙蝠傘 を さした 女が 子供の 手 を 引いて 樹陰 を 傳ひく 來
るのに 逢うた。 町の 良い 家の 妻女であった らう。 傘 を 持った 手に 藥瓶を 下げて 片手 は 子供の 乎 を
引いて 来る。 子供 は 大きな 新しい 麥藁帽 の 紐 を 可愛い 頃に かけて 眞 白な 洋服の 様な も. の を 着て 居
た。 自分の 提げて ゐた蟲 籠 を 見付ける と 母親の 手 を 離れて 現き に 来たが、 眼を圓 くして 母親の 方
へ跃 けて 行って、 袖 をぐ い, /\ 引つ ばって 居る と 思 ふと、 叉蟲 籠を舰 きに 來た。 母親 は 早くお 出
でよ と 呼ぶ けれども、 中々 自分の 側 を 離れぬ。 强 ひて 連れて行かう とすると 道の 眞 中に 踞ん でし
まって 到頭 泣き出した。 母親 は 途方に くれ 乍ら 叱って 居る。 自分 は 其時蟲 籠の 蓋 を 開けて 兜蟲を
引出し 道端の 相撲 取 草 を 一本 拔 いて 蟲の角 をし つかり 縛った。 そして、 さあと いって 子供に 渡し
た。 子供 は 泣き やんで きまりの 惡 いやう に嬸 しい 額 をす る。 母親 は 驚いて 子供 を 叱りながら も禮
をい うた。 自分 はなんだ か 極り が惡 くな つたから、 默 つて さに なった 蟲籠を 打ち ふり 乍ら 駅け 出
したが、 嬉しい 様な、 惜しい 様な、 かって 覺 えない 心 持が した。 其 後 度々 同じ 常 山 木の 下へ も 行
134
語 物 花
つたが、 あの 時の 様な 見事な 兜蟲 はもう 見付からなかった。 又 あの 時の 母子に も 再び 逢 はな かつ
た。
八 龍膽花
同じ 級に 藤 野と いふの が 居た。 夏期の H キス 力 ー ショ ンに 演習林へ 行く 時に よく 自分と 同じ 組
になって 測量な どやって 歩いた。 見ても 病身ら しい、 脊の ひよ ろ 長い、 そして からだの わりに 頭
の 小さい、 いつも 前屈みに なって 歩く 男であった。 無口で 始終 何 か 茫然 考へ 込んで 居る 様な 風で、
他の 一般に 快活な 連中から は あまり 歡迎 されぬ 方であった。 然し 極く 氣の 小さい 好人物で 柔和な
眼に は何處 やら 人 を 引く 力 はあった。 自分 は此 男の 顏を 見る と、 どうい ふ 譯か氣 の 毒な とい ふや
うな 心 持が した。 此 男の 過去 や 現在の 境遇な どに 就いては 當人も 別に 話した 事 はなし、 他から も
聞いた 事はなかった が、 何とな しに 不幸な 人と いふ 感じが、 初めて 逢うた 時から 胸に 刻み付けら
れて しまった。 或る 夏 演習林へ 林道 敷設の 實 習に 行った 時の 事で ある。 藤 野の 外に 三 四 人が 一 組
になって 山小屋に 二週間 起臥 を 共に した。 山小屋と いっても、 山の 崖に 斜に 丸太 を 横に 立て かけ、
5
其 上 を 席 や 杉 葉で 蔽 うた 下に 板 を 敷いて、 銘々 に 毛布に くるまって ごろ/ \寢 るので ある。 小屋 !
の 隅に 石 を 集めた 竈 を 築. いて、 こ V で 木 樵の 人足が 飯 を 炊いて くれる。 一日の 仕事から 歸 つて 來
て、 小屋から 立 昇る 蒼い 煙 を 姐 道から 見上げる の は 愉快であった。 こんな 小屋で も 宅へ 歸 つた 樣
な 心 持になる。 夜になる と 天井の 丸太から 吊した ラム プの 光りに 集る 蟲を追 ひ 乍ら、 必要な 計算
ゃ製圖 をしたり、 時には ビスケットの 罐を眞 中に、 みんなが 腹 這 ひに なって むだ 話 をす る 事 も あ
る。 いつもよ く學 校の 噂 ゃ敎授 達の 眞 似が 出て 賑 かに 笑 ふが、 又 折々 若 やいだ 艷 かしい 様な 話の
出る 事 もあった。 こんな 時 藤 野 は 人の 話を聽 かぬ でもな く聽 くでもなく、 何 か 不安の 色 を 浮べて
考 へて 居る 様で あるが、 時々 かくしから 手 馴れた 手帳 を 出して 樂書 をして EJis る。 一夜 夜中に 眼が
覺 めたら 山 はしん として 月の 光りが 竈の 處に 差込んで ゐた。 小屋の 外 を 歩く 足音が する から、 蓆
の 隙から 覼 いて 見る と、 蒼い 月光の 下で 藤 野が ぶら り. (- 歩いて 居た。 毎朝 起きる とき まり 切つ
た 味 喰 汁 を ぶ つ かけた 飯 を 食 つて セォ ドラ イト や ボ,' ルを檐 いで 出かける。 目的の 場所へ 着く と
器械 を据 ゑて 交る/ \ -觀測 を 始める。 藤 野 は 他人の I の 時には 切株に 腰 を かけたり 草の 上に ねこ
ろんだり していつ もの 樣に考 へ 込んで 居る が、 いよ. (- 自分の 番 になる と 急いで 出て 來て 器械 を
のぞき、 熱心に 度盛り を 讀んで 居る が、 どうい ふ もの か 時々 とんでもない 讀み違 ひ をす る。 ノ ー
トを控 へ て 居る 他の 仲 問から、 それで は あんまり ちが ふやう だが と 注意され て 讀み違 へた ことに
136
語 物 花
穿 かつく と 顏を眞 赤に I て 非常に 恥ぢ てお ど./ \> する。 どうも 失敬した-^ と 云ひ譯 をす る。
な る ベ く 藤 野に は讀ま せぬ 樣 にしたい と 誰も 思 つたら うが、 さう いふ 譯にも 行かぬ ので 矢張り 順
番で讀 ませる。 すると 五囘に 一度 は 何 かしら 間違へ て 其 度に 非常に 恥ぢて 悲しい 顏 をす る。 そし
てヅ ボンの 膝 を 抱へ て 一層 考へ 込む ので ある。 こんな 風で 二週間 も 大方 過ぎ、 もう 引上げて 歸ら
うとい ふ 少し 前であった らう。 一日 大雨が ふって 霧が 渦卷 き、 仕事 も 何も 出来ない ので、 みんな
小屋に 籠もって 寢て 居た 時、 藤 野の 手帳が 自分の 傍に 落ちて ゐ たの を 何の 氣 なしに 取り上げて 開
いて 見たら、 山に 夥しい 龍膽の 花が 一 つ 枝 折に 插ん であって、 いろんな 樂書 がして あった。 中に
銀杏が へしの 女の 頭が いくつ もあって、 それから Fate とい ふ 字が 色々 の 書 體で澤 山 書き散らし
てあつた。 仰向きに 寝て 居た 藤 野が 起き 上って それ を 見る と、 蒼い 顏を したが 何も 云はなかった。
九 徕の花
一 夏、 腦が惡 くて 田舍の 親類の 厄介に なって 一 月 位 遊んで 居た。 家の 前 は 淸ぃ小 溝が 音を立て
て 流れて ゐる。 狭い 村道の 向 側 は 一面の 靑 田で 向 ふに は德川 以前の 小さい 城趾の 岡が 兒 える。 古
風な 屋根 門の すぐ 脇に 大きな 煉の 木が 茂った 枝 を擴げ て、 日盛りの 道に 涼し い 陰 を こしら へ てゐ
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た。 通りが k りの 行商ん などが よく 門前で 荷 をお ろし、 門 流れで 顔 を 洗うた 濡 手拭 を 口にく はへ
て 涼んで 居る 事が ある。 一日 暑い 盛りに 門へ 出たら、 樹陰で 桶屋が 釣瓶 や 桶の 箍 を はめて 居た。
綺麗に 掃いた 道に 靑 竹の 削り屑 や 鈎 屑が 散らばって 棟の 花が こぼれて ゐる。 桶 屋は黑 い 痘痕の あ
る 一癖 ありさうな 男で ある。 手拭 地の 肌着から 黑ぃ 胸毛 を 現 はして 逞しい 腕に 木槌 を ふるうて 居
る。 槌の 音が 向 ふの 岡に 反響して 靜な 村里に 響き渡る。 稻 田に は 强烈な 日光が 眩しい やうに さし
て、 田圃 は 暑さに 眠って ゐる やうに 見える。 其處へ 羅宇 屋が 一 人來て 桶屋の 側へ 荷 を 下ろす。 古
いそして 小さ 過ぎて 胸の 合 はぬ 小 倉の 洋服に、 腰から 下 は 股引 脚雜 で、 素足に 草鞋 を はいて 居
る。 古い 冬の 中折れ を 眉 深に 着て 居る が、 頭 は 綺麗に 剃った 坊主ら しい。 「今日 も 松 魚が 捕れた
のう」 と 羅宇 屋が 話しかける。 桶屋は 「捕れた かい、 此頃 はなん ぼ 捕れても、 みんな蒸氣でl^ぺ
積み出す からこ ちらの 口へ はは ひらん わい」 とやけ に 桶 を ボン. (- 叩く。 門の 屋根裏に se^ をして
居る 燕が 田圃から 歸 つて 來 てまた 出て 行く の を、 羅宇 屋は 煙管 をく はへ て 感心した 様に 眺めて 居
たが、 「鳥 で も 燕 位 感心な 鳥 はま づ ない ね」 と 前置 をし て こ んな話 を 始めた。 村 の 或る 舊 家に 燕が
昔から 巢を くうて 居た が、 一日 家の 主人が 燕に 「お前に は 永年う ちで 宿 を 貸して ゐ るが、 時た ま
に は 土産の 一 つも 持って来たら どう だ」 と 戯れに 云った 事が あった。 そしたら 翌年 燕が 歸 つて 來
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た 時、 丁度 主人が 飯 を 食って 居た 瞎の 上へ 飛んで 来て 小さな 木實を 一粒 落した。 主人 は 何ん の氣
なしに それ を 庭へ 投り 出したら、 間もなく 其處 から 奇妙な 樹が 生えた。 誰も 見た 事 もなければ 聞
いた 事 もない 不思議な 木であった。 其 木が 生長す ると 枝 も 葉 も 一 面に 氣 味の 惡 ぃ毛蟲 がつ いて、
見る も淺 猿し いやう であった ので 主人 は 此木を 引拔 いて 風呂の 焚き 附 けに 切って しまうた。 其 時
丁度 町の 醫 者が 通り か、 つて、 それ は 惜しい 事 をした と 歎息す る。 どうして かと 聞いて 見る と、
それ は 我 邦で は 得難い 麝香と いふ ものであった さうな。 こ 、迄 一 人で 饒舌って しまって 尤もらし
ぃ窗 をして 煙 を 輪に 吹く。 ボ ンく桶 をた- - きながら 默 つて 聞いて 居た 桶 屋は此 時 ちょっと 自分
の 方 を 見て 變な眼 付 をした が 、「そして 其 翳 香と いふの は 其 樹の事 かい、 それとも 又毛蟲 かい」 と
聞く、 「ゥ I ン、 そり や あそ Q、 麝香に も 又 色々 種類が ある さう でのう」 と、 どちらと も 分らぬ 事
をい ふ。 桶 屋は强 ひて 聞かう ともせぬ。 桶 をた \ く 音 は 向 ふの 岡に 反響して 楝の 花が ほろ くこ
ぼれ る。 (明治 四十 一年 十月、 ホトト ギス) .
まじよりか 皿
十二月 卅; 日、 今年 を 限りと 木 枯の强 く 吹いた 晚、 本鄕四 丁::: から 電車 を 下りて 北に 向うた 忙
がしい 人々 の 中に 唯 一 人忙 がしくない 竹 村 運 平 君が 交じって 居た。 小さい 新聞紙の 包 を 大事 さう
にか i へ て 電車 を 下りる と 立 止って 何 かま ご. (- して 居た が、 薄汚い 襟卷で 丁寧に 頸から 踬を包
ん でし まふと 歩き 出した。 ひよ ろ 長い 支那 人の やうな 後 姿 を 辻に 立った 巡査が 肩章 を聳 かして 寒
さう に 見送った。
竹 村 君 は 明ける と卅 一になる。 四 年 前に 文學士 になって から、 しばらく 神 田の 某 私立 學校 で英
語を敎 へて 居た。 受 持の 時間に 竹 村 君が 教場へ は ひると きに 首席に 居る 生徒が 「氣を 付け」 r 禮」
と號令 をす ると 生徒 一同 起立して 恭しくお 辭儀 をす る。 そんな 事から が 妙に 厭であった。 そして
肖 分に も 碌に 分らない やうな 事 をい 、加減に 敎へ て 居る と、 次第々 々 に 自分が 墮 落して 行く 樣な
140
血 力' りょじ ま
氣 がする と 云って 居た が、 一年ば かりで とうく 止して しまった C さう して 月給が なくなって 困
る 困る とこ ぼしながら ぶら して 居た。 地方の 中擧に 可也に 好い 口が あって 世話しょう とした
先輩が あつたが、 田 舍は厭 だからと 素氣 なく 斷 つて 了った。 何故 田 舍が厭 だと 人が 聞く と、 田舍
は厭ぢ やない が 田舍の 「先生」 になって しま ふ Q が 厭 だからと いった。 夫れ で 相 變らす 金 を 取ら
なくち や 困る といって AJ ぼして 居た。 其 後一 時 新聞社へ も は ひって 居た。 半年 位 通って 眞 面目に
働いて 居た が、 自分の 骨折って 書いた ものが 一度 も 紙上へ 載らない ので 此方 も 出て しまった。 此
頃で は あちこちの 飜譯物 を 引受けたり、 少年 雜 誌の 英文 攔 など を 手 俥って、 どうか かう か はやつ
て 居る。 時々 小說の やうな 物 を 書いて 雜 誌へ 出す 事 も あるが、 兎角 Q 評判 もない やうで ある。 自
分の 小 說が何 かに 出る と、 方々 の 雜誌屋 の 店先で 小說 月評と いった 樣な攔 を あさって 見る が、 い
つ で も 失望す るに きま つ て 居た。
根 津邊の 汚い 下宿屋で 極めて 不規則な 生活 を 送って 居る。 一 日 何もし ないで 煙草ば かり 吹かし
て寢 たり 起きたり 四疊 半に 轉 がって 居る 事 も あれば、 朝から 出掛けて 夜の 二 時 頃 迄 歸らぬ 事が あ
る。 さう かと 思 ふと 一 ニニ 日 風呂に も 行かす 夜更迄 机へ すがった 切りで コ ッ./ >\ 何 か 書いたり 讀ん
だり する。 そんな 時 はいかに も 苦し さうな 溜息ば かりして 何遍と なく 便听へ は ひって 大きな 欠伸
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をす る 癖が ある。 朝 は 大概 寢坊 をして、 之が 爲 めに 晝 飯を拔 きにする 事が あるが、 其 代りに 夜の
十 時 頃から 近所の 牛 肉屋へ 上って 腹 一 杯に 食 ふ 事 も 珍しくない。 一 體に食 ふ 方に かけて は贅澤 で、
金の ある 時には 洋食 だ 鰻 だと 無暗に 多量に 取 寄せて 獨 りで 食って しま ふが、 身なり はいつ でも 見
窶 らしい 風 をして、 床屋へ 行く の は 極めて 稀で ある。 それでも 机の 抽斗に は 小さな 鏡が 人れ て あ
つて、 時に よると 一時間 も ラム プ 0 下で 鏡 を 睨めて 居る 事が ある。 風采 は餘り 上らぬ 方で ある。
酒を飮 まぬ 事と 一度 も 外で 泊った 事の ない の を 下宿の 主婦が 感心して 居た。 友達と いふ もの は殆
ん どない。 唯一 人 親しく 往來 して 居た 同窓の 男が 地方へ 就職して 行って から は、 別に 新しい 友 も
出来ぬ。 唯此頃 折々 牛 込の 方へ 出る と 神樂坂 上の 紙屋の 店へ 立 寄って 話し込んで 居る 事が ある。
此, 紙屋と いふの は 竹 村 君と 同鄕の もので、 主人と は 昔中擧 校で 同級に 居た 事が ある。 いっか 偶然
に 出く はしてから は 通りが、 りに 聲を 掛けて 居た が、 此頃 では 寄る と ゆる/ \- 店先へ 腰 を 下して
無駄話 をして 行く。 主人の 妹で 十九になる 娘が 居て 店の 奥の 方で ちらく する 時が ある。 色の 白
い 女學生 風な 立ち姿の 好い 女で ある。 晴々 とした 顏で奧 から 靦 いて 美しい 眼 を 見せる 時 も あるが、
又 妙に 冷い 顏 をして 竹 村 君な どに は 目 も かけぬ 時が ある。 娘の 姿の ちらく する 日に は 竹 村 君 は
面 ,H さう に 一時間の 餘も 話し込んで 居る が、 娘 Q 額 を 見せぬ 日 は 自然に 口が 重くて さう かとい つ
142
皿 力 1 リ よじ ま
て 急に 歸る でもな く、 朝日 を 引 切りな しに 吹かして 眞鍮 のし かみ 火鉢の 片隅へ 吸 殼の山 を こしら
へる。 一週間に 一遍 位 は 屹度 廻って 來 るが、 いつ 来ても 同じ やうな 話ば かりして 居る。 店へ は鄕
里の 新聞が 來て 居る ので 話 はよ く鄕 里の 噂になる。 それから 昔の 同級生の 噂になる。 福 見や 河 野
が 洋行す る 話 や、 櫻 井が 內務 省の 參事官 で 幅 を 利かせて 居る やうな 話が 出る と 竹 村 君は氣 の乘ら
ぬ返辭 をして ふっと 話題 を轉 する のであった。 .
今日 も 夕刻から 神樂 坂へ 廻って、 紙屋の 店で 暮の 街の 往來を 眺めて 居た。 店の 出入 は 忙し さう
であった が、 主人 は 相 變らす 落着いて 相手に なって 居た。 兵隊が 幾 組 も 通る。 「兵隊 も吞氣 でい
いな あ」 と 竹 村 君が 云 ふと 「あなた 方 も氣樂 でせ う」 といって にやくした。 竹 村 君 は 「さう さ
な あ、 まあ 兵隊の やうな もの だら う」 といって 笑った。 彼 は 中 學校を 出る とすぐ に生眞 面目な 紙
屋の 旦那に なって 居る 主人と、 自分の 様な 人間との 境遇の 著しい 違 ひ を 思 ひ 較べて 居た。 そこへ
外から 此處の 娘が 珍しく 髮を島 田に 上げて 薄化雜 をして 車で 歸 つて 来た。 見 かへ る 様に 美しい。
いつにな く 少し はにかんだ 様な 笑顏を 見せて 輕 く會釋 しながらい そく 奥へ は ひった。 竹 村 君 は
外套の 襟の 中で 首 をす くめて、 手 持 無沙汰な 顔 をして 娘の 脫 捨てた 下駄の 派手な 鼻緒 を 見つめて
居た が、 店の 時計が 鳴り 出す と 与^に 店 を 出た。
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神 ffl の 本屋へ 廻って 原稿料の 三十 圓を 受取った。 手を切り さうな 五 圓札を 一 重ねに 折り かへ し
て 銅貨と 一 絡に 財布へ 押し こんだ の を懷に 人れ て、 祌保 町から 小川 町 をし ばらく あちこち 歩いて
居た。 美し さ を 競うて 飾り立てた 店先 を 軒 毎 に^き 込んで 居た。 竹 村 君 はかう して 店先 を視 くの
がー つの 樂 しみで ある。 殊に 懷に 金の ある 時に さう である。 陰 氣な根 津邊に 燻ぶって 居て、 時た
ま 此處ら の 明るい 町の 明るい 店先へ 立つ と 全く^ 世界へ 出た 様な 心 持に なって 何となく 愉快で あ
る。 時計屋 だの 洋物 店の 硝子 窓 を 子供の やうに のぞいて 歩いた。 吴服屋 に は 美しい 帶が 飾って あ
つた。 今日 ちらと 見た 紙屋の 娘の 帶 に似て 居る。 正札 を 見る と 百 二十 圓 とあった。 綺 葉書 屋へは
ひったら 一 面に 散らした 新年の 力 I ドの 中には 賫れ殘 りの クリ ス マ スカ— ド もあった。 誰に 贈る
あても ない が 一枚 を 五十 錢で 買った。 水 菓子屋の E さめる 様な 店先で 立 止って 足 許の 甘 藍 を 摘ん
で 見たり して 居た が、 とうく 蜜柑 を 四つば かり 買って 外套の 隱しを 膨らませた。 眼鏡屋の 店先
へ來 ると 覘き股 鏡が あって 婆さんが 一 人覘 いて ゐる。 此方の レ ン ズを覘 いて 見る と 西洋の 美しい
街の 大通りが 浮き 上って 見える。 馬車の 往来が 織る 様な 町の 兩 側の 人道の 並木の 下に は 手 を 組ん
だ 男女の 群が 樂 しさう に 通って 居る。 視 いて 居る 竹 村 君 の 後ろ をヂ ヤンく と 電車が 喧し い 音 を
立て \ 行 くと、 切る やうな 風が 外套の 裾 を あ ふる。 隣りの文房具店の前へ來るとしばらく^^^ロ の
144
皿 か りょじ ま
飾り を 眺めて 居た が戶を 押し開けて は ひって 行った。 眩しい 様な 瓦斯 燈の 下に 所 狭く 並べた 繪具
や 手帳 や 封筒が 美しい。 水色の 壁に 立て かけた 眞. in な 石膏 細工の 上に パ レットが 懸 つて 布 細工の
橄攬の 葉が 插 して ある。 隅の 方で 小僧が 二人 掛け合 ひで 眞似 事の 英語 を. 饒舌って 居る。 竹 村 君 は
前屈みに なって 砲 子 箱の 中に 並べた まじよりか 皿 を あれ か是れ かと 物色して 居る が、 頭の 上の 瓦
斯の光 は 薄汚い 鼠色の 襟 卷を隱 す 所 もな く 照して 居る。 元氣 よく 小 僭 を 呼んで、 手に 取り上げた
一枚の 皿と 五圓 札と をつ き 出す と、 小僧 は 有難うと いって 竹 村 君の 額 を じろ く 見た。 竹 村 君 は
小僧が 皿 を 包む の を もどかし さう に 待って 居た が、 包 を 受取る と 急いで 表へ 飛び出した。 さう し
て 側 目 も 振らす にいき なり 電車へ 飛込んで しまった。
竹 村 君が 此の まじよりか 皿 を 買 はう と 思 ひ 立った の は 久しい 前の 事で ある。 いっか 同鄕の 先輩
の書齋 で 美しい 鎗の ついた 長方形 0 淺ぃぺ ン皿を 見. た 事が ある。 其 時 これが まじょり かとい つて
安くない もの だと 敎 へられた。 其 後 此の 文房具 店で 同じ やうな 色々 の 皿 を 見付けて 一 つ 欲しい と
思 ひ 立った が、 今日 迄機會 がなかった ので ある。 今夜 買った の は 半月形で 蒼海 原に 帆 を 孕んだ 三
本 檣の 巨船の 綺 である。 夕日 を 受けた 帆は柔 かい 卵子 色 をして 居る。 海と 空の 深い 透明な 色 を 見
て 居る と、 何 かしら 遠い ゆかしい 樣な想 ひがす るの を 喜んで 買った。
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欲しい と 思った 皿 を 買った の は 愉快で あるが、 電車の ゆれる につれ て 腹の 奥底の 方に 何 處か不
安な 様な 念が 動いて 居た。 竹 村 君は鄕 里に 年老いた 貧しい 母を殘 して ある 事 を 想 ひ 出した ので あ
る。 五 圓で皿 を 買っても 暮の拂 ひに は 困らぬ。 下宿 や 洗濯屋の 拂 ひを濟 ませても 二十 圓 あれば 足
りる。 今年 は 例年の 事 を 思へば 樂な暮 であるが、 去年 や 一昨年の 苦しかった 暮に は、 却って 覺ぇ
なかった 一種の 不安と 淋し さを覺 えて、 膝の 上の まじよりか 皿と、 老い 增 さる 母の 顏とを 思 ひ 比
ベた。 四 丁目で 電車 を 下りる と 皿の 包 を 脇の 下へ 抱へ て 見た が 工合が 惡ぃ。 外套の 隱し へね ぢ込
むと 蜜柑が つかへ るから、 又 片手で しっかり さげて 歩き 出した。 木 枯が森 川 町の 方から 大學の 前
を禍卷 いて 来る 度に、 店 毎の 瓦斯 燈が 寒さう に 溜息 をす る。 竹 村 君 は 此の 空ら 風の 中 を突兀 とし
て、 忙し さうな 往来の 人 を 眺めて 歩く。 知らぬ 人ば かりで ある。 忙しい 世間 は 竹 村 君に は 用 はな
い。 何 かなしに 祌 £ で覘 いて 見た 眼鏡の 中の 大通り を 思 ひ 浮べて、 異鄕の 巷 を 歩く 様な 思 ひがす
る。 高等 學 校の 横 を 廻る 時に 振 返って 見る と本鄕 通りの 夜 は 黄色い 光に 包まれて、 其 底に 歳暮の
世界が 動搖 して 居る。 彌生 町へ 一歩 踏 込む と 急に 眞 暗で 何も 見えぬ。 此の間の 中 を 夢の 様に 歩い
て 居る と、 暗い 中に 今夜 見た 光景が 幻影と なって 浮き出る。 まじょり かの 帆船が 現 はれて 蒼い 海
を 鬼 もな く 帆 かけて 行く。 海に も 空に も 船に も歲は 暮れ か、 つて 居る。 逝く 年の あらゆる 想 ひ を
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乘 せて 音 もな く 波 を、 u つて 行く。 船に は 竹 村 君 も 小さくな つて 乘 つて 居る。 紙屋の 娘 も 水々 しい
島 田で 乘 つて 居る。 淋し さうな 老母の 顏も 見える。 默 つて じっとして 居る 人々 の顏 にも 年が 暮れ
か& つて 居る。
竹 村 君 は 片手の 皿 0 包 を 胸に 引きし める 樣 にして 歩いて 居た が、 突然 口の 中で 「三百 圓も ある
とい、 な あ 一と 眩いた。 (明治 四十 二 年 一月、 ホトト ギス)
先生 へ の 通信
ゲェ 二 スから
お 寺の 鳩に 互 を 買って 遣る こと は 日本に 限る こと、 思つ て 居ました が此 處のサ ン マルコ 0 お 寺
の 前 でも 同じ こと を やって 居ます。 祖し 豆ではなくて 玉蜀黍 を 細長い 圓錐形 の 紙袋に つめたの を
|買 つ て 居ます。
大道で 鍋 を 煮立た せて、 茹 章魚 を寶 つて 居る 男が 居ました。
ヴ. 1 ニスの 町 は 朽ち 汚れて 居る が、 それ は 美しく 朽ち 汚れて 居る ので 壁の 刹 がれた の も、 乃至
は 窓 から ぶら下げ た 洗 い 物 迄 も、 悉く 云 ふに 云 はれぬ 美 しくく す んだ 好い 色彩 を 示して 居ます。
霜枯れ時 だのに、 美しい 常 磐 木の 綠と、 靑 王の やうな 水の 色と が 古びた 家の 黄 や 赤 や 茶に よくう
148
信 ii のへ 生 先
つります。
ゴンドラ も 面白く、 貧しい 女 も 美しく 見えます。 (明治 四十 ミ年 一月、 東京 朝日 新開)
羅 馬から
羅馬へ 來て累 々たる 廢墟の 間 を 彷徨して 居ます。 今日は 市街 を 離れて ァ ルバ ノ の 湖から a ッ 力
ディ パパの 方へ 古い 火山の 跡 を 見に 參 りました。 到る 處の 山腹に は オリ ー ヴの實 が 熟して、 其 下
に は 羊の 群が 遊んで 居ます。 山路で、 大原 女の 様に 頭の 上へ 枯 枝と 蝙蝠傘 を 一度に 束ねた の を 載
つけて、 靴下 を あみながら 歩いて 來る 女に. I: ひました。 角の 長い 牛に 村 木 車 を 引かせて 來 るの も
あれば、 驢馬に 炭俵 を 積んで 來 るの も ありました。 蜜柑の 木 も あれば 竹 もあります。 眼と 髮の黑
い 女が 水 溜の ま はりに 集って 洗濯 をして 居る 傍に は鷄が 群れ遊び、 豚が 路傍で 鳴いて 居ます。 -ヴ
チカ ンもー 部 見ました が、 此處の 名物 は 旨い 物 許りの 様で 有ります。
(明治 四十 111 年 二月、 東 1. が 朝::: 新聞)
:E 林から (一)
14Q
今此處 のべ ルリ イナ ァ 座で 「タイ フン」 と 云 ふ 芝居 を やって 居ます。 作者 は 匈牙利 人で、 日本 Q
の留攀 生の こと を 仕組んだ もの ださう です。 大變 人氣が 好い 相であります。 主人公 Q 日本人 Q 名
が ドクトル - タケ ラモ . ニト ベと 云 ふの ださう で、 此の タケ ラ乇 だけで も 行って 見る 氣 がしな く
成ります。 人の 話に よると 中々 能く 日本人の 特性 を 穿って ゐて、 寧ろ 日本人の 美點を 表現して 居
る 相です が、 タケ ラモに 恐れて まだ 見ません。 (明治 四十 11 一年 四月、 東京 朝日 新聞)
伯林から (二)
今度の 旅行 中 は 天 氣の惡 い 日が 多くて、 殊に 瑞西 では 雨 や 霧の 爲に アル ブスの 雪 も 見えす、 割
合に 詰まりませんでした。 それでも モ ン ブランの 氷河 を 見に 行った 日 は 天氣が 好くて 面白う 御座
いました。 寒暖計 を 一本 下げて 氣溫を 測ったり して 歩きました。 鶴嘴の 様な 杖 を さげて 繩を 肩に
擔 いだ 案內 者が、 英語で ガイド は 入らぬ かと 云 ふから、 お前 は 英語 を 話す かと 訊く と、 い. - えと
云 ひました。 ヒら ない 用心に 靴の 上へ 靴下 を 穿いて、 一人で 氷河 を 渡りました。 好い 心 持でした。
氷河の 向 側はモ 1 'ヴェ .パー とい ふ險路 で、 高山植物が 山の 間に 花 を 綴り、 處々 に 瀧が あります。
此處 から 谷へ 下りる 途中に、 小さな タヴァ ン といった 様な 家の 前 を 通ったら、 後から 一 人 追つ か ,
信 通のへ 生 先
けて 來て、 お前 は 日本人で はない かと 訊きます から、 然 うだと 答へ たら • 私は英 人で ゥ H ス トン
と 云 ふ もの だが、 日本に は 八 年間 も 居て あらゆる 高山へ 登り、 富士へ は六囘 登った ことがあ ると
話しました。 其 細君 は 宿屋の 前の 草原で 靴下 を 編んで 居ました。 其處 から 谷底へ 下りて シャ モ 一一
の 村まで 歩き ましたが、 道端の 牧場に は 首へ 鈴 をつ けた 牛が 放し 飼 ひに してあって、 其 鈴の 音が
非常に メ n ヂァス に 聞え ます。 又 番人の 子供 や 婆さん も 本當に 総の やうで 愉快でした。 日本に も
ある 樣な 秋草が 咬いて 居たり、 踏切番の 小屋に 菊が^い て 居たり、 路傍の マリヤの 御堂に 花が 供
へて あるの も 見ました。 シャモ 二の町へ 這 入る 頃に は、 もう 日が 暮れ か& つて、 眞 紅な 夕陽が ブ
ゾンの 氷河の 頂 を 染めた 時 は實に 綺麗でした。 村の 町に は 名物の 瑪? ^細工 やら 牛の 角細工 を 並べ
た 店 許り 連なって、 斯うい ふ處に はお 極り の キネ マが 自働 ピアノで 客 を 呼んで 居ました。 巴里邊
りから 來て 居る らし い 派手な 服装 をした 女が 散歩して 居ました。
シャモ 一一 から ゼネ ヴへ歸 つて、 郊外に 老學 者サラ サン 氏 を 訪ねました。 大變 喜んで 迎 へて くれ、
自分 0 馬車に のせて 町中 を案內 して 吳れ ました。 晝釵を 招 ばれてから 後に 其廣ぃ 所有地 を 見て 歩
きました。 此 人の 細君が 私 ども Q 論文 を佛譯 して 此處の 學術雜 誌に 載せて 吳れ たの ださう です。
此處 はもう 佛蘭 西の 國境 近くで、 邸の ベランダから 牧場 越しに 國 境の 森が 見え、 又ヴ オル テ ー ァ 1.
の 住って 居た と 云 ふ 家 も 見えます。 毛氈の 様な 草原に 二百 年も經 つた 柏の 樹ゃ、 百年 餘の 栗の 木
が ぼつく 並んで、 其 間 をう ねった 徑が 通って 居ます。 地所 Q 片隅に 地中から 氣を 吹き出した
り 吸 ひ 込んだり する 井戸が あって、 其 處で其 理窟 を說 明して 聞かせました。 俄氣壓 が來る 時には
噴出が 盛に 成って 麥藁惰 位 噴き 上げる 杯と 話しました。 それから 小作人 Q 住宅 や 牛 小舍、 豚 小 舍-
糞堆迄 見て 歩きました。 小作人 等に 一 々了 3 I と聲を 掛けて、 一 言 一 1 言 話して 居ました。 農家の
建 方な ど 古い 昔の 儘 だ 相です。
邸 Q 人口から 玄關 迄は橡 Q 並木が つに いて 居ます。 其 兩脇は 林檎 畑で 丁度 林擒が 赤く 熟して 居
ました。 書齋 には羅 馬で 買って 來 たとい ふ 大理石の 半身像が 幾つ も ある。 サラ サン 氏 は 一 々其 頭
を 撫で 其 顔 を さすって 見せる Q でした。 其 中に 一 つ 頭の 大きな 少年の 像が あって 大變に 好い顔 を
して 居る。 先生の 一番 目の 嬢さん が 未だ 子供の 時分 此 半身像に すっかり ラヴして しまって、 お 父
さんの 椅子 を踏臺 にして は 石像に 接吻した さう です。 其樣を 油: li に畫 かした 額が 客間に か" つて
居ました。 霧が あって 小雨が 降って、 誠に 靜 かな 日でした。
ゼネヴ からべ ルン、 チュ ー リヒ、 ルツェルン など を 見て 廻りました。 ルツェルンに は 戰爭と 平
和 Q 博物館と いふの があって、 日露 戰 ハサ の 部に は 俗 惡な錦 搶が澤 山 陳列して あつたので 少し 厭に
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信 通のへ 生 先
成りました。 到る 處の谷 や 斜面に は 牧場が 列な り、 林檎が 實 つて、 美しい 國 だと 思 ひました。
それから ス トラ ス ブルク を 見て、 一一 ュ ル ンべ ルク へ參 りました。 中世の 獨逸を 見る 樣な氣 がし
て 面 .一! う 御座いました。 市 廳の 床下の 囚獄を 見た 時 は、 若い 娘さんが ラム プを 下げて 案內 して
吳れ ました。 罪人 は 藁 も 何も 無い 板の 寢床 にね かされて、 パン も 水 も 貰へ なかった と咄 しました 一
一 緒に 行った チ a ル帽の 老人が 色々 質問 を 出す けれども、 娘の 案 內者は 詳しい 事 は 何も 知らない
Q で 要領 を 得ませんでした。 此れから 地下の 廊下 を 十五 分 も 行く と 深い 井戸が あるが 見に 行き ま
すかと いふ。 しかし 老人の 細君が 不贊 成を唱 へて とうく 見す に 引返しました。 それから 畫伯ヂ
ュ ラ ー Q 住居の 跡 も 見ました が、 其處の 入場券が 富札に 成って 居ます。 名高い 古城の 片隅に は 昔
の 刑具 を 陳列した 塔が あります。 色の 蒼い 小さい 女が 說 明して 歩く。 一緒に 見て 歩いた 學生 風の
男が 此案內 者に 「お前さんの 様に 毎日 朝から 晩まで 身の 毛の よ 立つ 様な 話 を 繰返して 居て それで
何ともありません か」 と 意地の 悪い こと をき くと 女 は 唯 苦笑して 居ました。 私 は其埋 合せの やう
な 積り で、 槍 葉書 を少々 許り 買って やりました C さう して 白銅 一 つ 遣って 逃げて 來 ました。 ミュ
ン へ ン では 四日 泊り ました。 ピナ コ テ I クの畫 堂で はムリ 口 ゃヂ ュ ラ ー やべ クリン など を 飽く程
見て 來 ました。 夫から ドレスデン やら H ナヘ 行って 後、 ワイ マ ー ルにニ 時 問 許り 止まって、 ゲ—
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テ と シ ラ ー Q 家 を 見 ま した C ゲ ー テが 死ぬ 前に 庭の 土 を 取 寄せ て 皿へ 入れて 分析しょう として 居
たら、 急に 悪くな つた Q ださう で、 書齋の 窓の 下の 高い 書架の 上に 土 を 入れた 孤が 今でも 置いて
あります。 隣の 寢窒 へ擔ぎ 込んだ が、 寢臺の 上へ 横に 成る ことが 出來 なくて 肱掛 椅子に 凭れた 儘
だった さう です。 椅子の 横の 臺の 上に は藥 瓶と 急須と 茶碗と が當 時の ま、 に 置いて あります。 書
齋 の 机で も寢窒 で も 意外に 質素な も の で 驚きました。 二階の 窒々 に は 色々 な 遣 物な ど 並べ て あり
ますが、 私に は ゲ.. 'テの 實驗に 使った 物理 器械 や 標本な どが 面 S う 御座いました。 シラ ー の 家 は
一 層 質素と 云 ふより は 寧ろ 貧しい 位でした。 ゲ,' テの 家に は 制服 を 着けた 立派な 番人が 數人居 ま
したが、 シラ IQ 方に は 猫背の 女が 唯一 人番 して 居ました。 裏庭の 向 側の 窓 はもう 他所の 家で、
職人が 何 か 細工 をして 居た やうです。 シラ I 町の 突當 りの 角 は 大きな 當世 風の カツ フエ,' で、 硝
子 窓の 中から 廿 世紀の 男女が、 通り か、 つた 毛色の 變 つた 私 を 珍し 相に 昆 物して 居ました。 町 も
辻 も 落葉が 散り敷いて、 古い 煉 一.:^ の 壁に は 血の 色 をした 蔓が 絡み、 溫 かい 日光 は 宮城の 番兵の
に 光って 居りました。
私 はもう 十日 許りで 伯林 を 引上げ、 ゲッ チン ゲン へ參 ります。
(明治 四十 一一 一年 十月、 東ハぉ 朝:; "新 開)
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信 通 乃- \ 生 先
ゲッ チン ゲン から
去年の 降誕 祭 は 旅で しました。 維納で 夜 遲く街 を うろついて、 クン ネン バウ ムを寶 つて 居る の
を 見た 時に 丁度 門松と 同じ だと 思った のと、 ヴ ェ ネ ディ ヒ で廿 五日の 晚 夥しい 人が 狹ぃ 暗い 町 を
只 ぞ ろ く 歩く の を 見て 淋しい 想 をした きりで したが、 今年 は此處 の田舍 で田舍 らしい 純粹 Q 降
誕 祭を經 験し ました。 廿 二日の 晚 宿の 主婦から、 天主 敎の 幼稚園で 降誕 祭式が あるから 行かぬ か
と 誘 はれた ので 行って 見ました。 主婦と 娘と、 家事の 見習 ひ 旁"、 手傳 ひに 來て 居る とい ふ スチュ
1 バ ー 孃と四 人で 行きました。 狹ぃ窒 に 玩具の 様な 小さい 俄い 机と 椅子 を 並べて、 夫に 一杯 子供
がうよ くして 居る。 みんな 貧し 相な 兒ば かりで、 中には 風邪 を 引いた のが 大分あって、 可哀相
に絕 えす 咳 をして 騷々 しい。 白の 頭巾に 黑 服で 丸く 肥った 尼 達が 一 一人 傍に 立って 監督して 居る。
.窒 の 後方の 扉が 開いて 居る 外側に は、 此邊の 貧民が 一杯 立って 騒々 しく 話して 居る。 机に 並べら
れた 子供の 中には 延び 上って 後の 群集 を 珍し 相に 眺める の もあります C すると シュ H スク I が 立
つて 行って、 頭 を パクく と 叩いて 向 ふむきに 坐ら せる。 其內に 一 人の子が、 群集の 屮 から 阿 母
の顏を 見付けて 、急に 戀 しくな つて 泣 出した。 シュ. ヱ スタ ー が 抱いて 母親の 處へ つれて 行って や
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つと すかして 席へ つかした が、 矢張^ 面 をして は 後 を 向いて 居る。 大勢の 子供の 中には 欠伸 をし
てゐ るの も ある。 眠くて コ クリ/ \ ^す るの もあります。. 堂の 隅に は 大きな ク ンネン バウ ムが 立て
てあつて シ ュ H スタ ー が 蠟燭に 火 を點け 始める とみんな 其方 を 見る。 樹の 下の 小さな お 堂の 中に
人形 G 基 哲孩兒 が 寝て 居る。 纏て 背中に 紗の翼 Q 生えた、 頭に 金の 冠 を 着た 子供の 天使が 二人 出
て來て 基督 孩兒 の兩 側に 立つ。 天使の 一人 は大變 咳が 出て 苦し さう で 背中の 翼が 顫 へて 居る が、
それでも 我慢して 一 生 懸命に すまして 居る。 そして 大きな 可愛い 眼 をして 私の 額 を 珍し さう に 見
て 居ました。 其內 老僧が 出て 來て 挨拶 を 始めました。 あまり 立派で ない 外套 を 着た ま、 で、 眼鏡
Q 上から 子供と 御 客と を 等分に 見ながら、 鼻へ 褂 つた 聲で 大分 長く 述べ立てました。 ワイ ナハト
の 起原 杯から 話し ましたが、 子供の 咳 は 絶え間な しで 騷々 しく、 咳の 出ない 子 は 大分 返 屈して 居
る やうでした。 今日 子供の 贈物に する 人形の 着物 を 殆んど 一 手で 縫うた シ ュ H スタ ー 何某が、 病
氣で缺 席され たの は遣憾 であります とい ふやうな 挨拶 も ありました。 此挨 移が 濟 むと、 監督の 尼
さんが 音頭 をと つて、 子供の 唱歌が 始まり、 それから 正面の 壇へ 大きい 子供が 交る く 出て 譜誦
をす ると、 尼さん が 心配して 下から 小さい 聲で 一緒に 諳誦す るので した。 それから ワイ ナハ トマ
ン が 袋 を か ついで 出て 來て おどけて 笑 はせ て、 それで 式が 濟み お客さん は みん な刖室 へ 入って、
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信 通のへ 生 先
此處へ 陳列した 子供へ G 贈物 を ー覽 する 譯 でした。 成程 此れ は 子供が 喜ぶ こと だら うと 思 ひまし
た。 式が 濟 むと、 室の 外に 居た 貧民が 一時に 押 込んで 施與を 受けよう とする ので、 中々 の 大混雜
で、 やっとの 事で 出て 来ました。
降誕 祭 前 一週間 程、 市役所 前の 廣 場に 歳の市が 立って、 安物の 玩具 や 駄菓子な どの 露店が 並び
ましたが、 何時 行って 見ても 不景氣 で 御客さん は餘り 無い やうでした。 賣 手の 爺さん や 婆さん も
長い 煙管 を 吹かしたり 編物 をして 居る ので 有りました。 素 見して 居る と、 「ドクトル Qrc; 那 さん、
降誕 祭 贈物 は 如何です」 と 呼び掛け るの も 有りました。 町の 店屋へ 買物に 行く と、 お前さん Q 故
國 でも ワイ ナ ハ トを祝 ふか なぞと 訊く のが 大分 ありました。
降誕 祭の 初の 日に は、 主婦さん が、 タン ネン バウ ムを 飾る から 手 傅って 吳れ ぬかと 云 ふので、
御手 傳ひ しました。 大層 古くな つた 御菓子 を黃 色い リボンで 縛った のが 一 箱あって、 此れ も 吊す
0 だとい つて、 縱の樹 へ 外の 飾 物と 一緒に 吊しました。 此れ は 十四 年 前にお 祖母さん が 買った お
菓子 だとい ふこと でした。 同じ 宿に 居る 女優の ス タルク 壤も、 前垂な どかけ て 三階から 降りて 來
て 手 傅 ひました。 一番 高い 枝に 吊す に は 梯子が 入用でした。 危ない と 云った が 諸かないで、 スタ
ルク 嬢が 吊しました。 其 夜の 十一 時の 汽車で 主婦さん の 息子が 歸 つて 來 ると 云 ふこと でした。 此
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息子 も 娘 も 主婦さん の繼子 ださう です。 息子 は H 1 ベル フ H ルド の電氣 工場に 勤めて る さう で-
それが ヮ イナ ハ トには 久し 振で 歸 ると 云 ふので、 此 間中から 妹娘が 贈物に する 襟 飾 を 編んで 居 ま
した。 到頭 出來 上らない とこ ぼして 居ました。 都合で 夕食後に バウ ムに灯 をつ けました。 綺麗で
した。 室の 片側へ 机 を 並べて、 皆 一同の 贈物が 陳列して ありました。 二人 Q 下女 も 夫々 反物 を 貰
つて 喜んで 居ました。 親子が 贈物 を 取り か はし 「ムック I」 「へ レ I ネ」 とお 互に 接吻す る の は
一寸 不思議に 思 はれました。 主婦が ピアノの 前に 坐って、 なで ワイ ナハト の 歌 をうた ひました-
雪の ふるのが 本當 ださう です が、 此晚は 暴風雨の 様な 雨が 降って ひどい 天氣 でした。 記念に バウ
ムの 寫眞を 撮り 度い と 思って、 町へ マグネシウム を 買 ひに 出ましたら、 街の 家々 の 窓に もソ イナ
ハト バウ ムの 光が 映って、 處々 音樂も 聞え て 愉快 さう に 見えました。 十一 時 過ぎに 息子が 歸 つて
來 ましたが、 私 はもう 窒へ歸 つて 床の 中で 新聞 を 見て 居ました から、 其 夜 は會. ひませんでした。
夜更ける 迄 隣 Q 窒で 低い 話聲が 聞え て 居ました。 息子 は それから 三日 目の 晚 食後に 歸 つて 行き ま
したが、 其の 晚 食の 席で 主婦が サンド ウイ ツチ を 持へ て 新聞に 包んで やりました。 汽享の 着く の
は 夜半 だからといって、 一番 厚い パンの 片を 選って 居ました。 食事が 濟んで 汽車の 出る 迄 大分 間
が あるので、 息子 は ピアノの 前へ 坐って ワイ ナハト の 歌な ど彈 いて 居ました。 主婦さん と 息子 は
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信 通の'、: fcjfe
始終 色々 話して 居り ましたが 兄妹の 間に は 一向 何の 話 もありませんでした。 それでも ネクタイ
はやつ と 出来 上った さう でした。
昨夕はジルヴ^^ スタ, 'ァ ー ベンドと いふので、 又 バウ ムに孅 燭を點 しました。 そして 食後に 溫
ぃプ ンシ ュ を 呑んで、 御菓子 を かじりました。 食堂の 棚に 飾って ある 葡萄が 毎日 少し づ、 なくな
るの は 不思議 だとい ふ 話が 出ました。 今日はた つた 四つに なった といって わざく 見せて くれ ま
した。 或る 主婦が 盜み食 をす る 下女 を 懲す爲 に 御菓子の 中 へ 吐劑を 入れて おいた 話 も 聞きました。
ス タルク 孃は 下稽古で 遲く なって やって来ました。 此人は 何時でも 忙し いくとい つて 居ます。
田舍 芝居で 毎日 變 つた 物 を演, ずるので、 下讀 みが 忙しい さう です。 或 日、 いつも 外出す る 時間に
出ないで 窒に 居ましたら、 隣の 食堂で 下讀 みが 始まって 一寸 驚きました。 後で 聞いたら レツ シン
グ Q r ミ ンナ. フォン. バ ルン ヘルム」 とかであった さう です。
此 大晦日 Q 晚 十一 一時に 日本へ 送る 年賀 狀を 出しに 出ました。 町の 辻で 子供が 一 一三 人 雪 を 往来の
人に 投げ付けて 居ました。 市役所の 邊迄 行く と 暗闇の 廣 場に 人が 大勢よ つて 居て、 町の 家 G 二階
三階から は 寒い のに 窓 を あけて 下を观 いて 居る 人々 の 顔が 見える。 市役所の 時計が 十一 一時 を 打つ
と 同時に 隣の ョ ハ ン會 堂の 鐘が 鳴 出す。 群集が 一 度に プ U 1 ジ ット. ノィャ I ル、 くと 叫ぶ。